巣立ち

菅原 淑恵


 去年の秋、生まれて二十九年暮らした家を出て、そこから数メートルのところに家族と越した。

 長く暮らしていると、やはり帰巣本能というのはその場所に向かわせるらしい。

 越してすぐの頃、仕事で疲れた思考停止の状態で帰ると、元の家の前に立っていたことがあった。

 ぼーっとしたまま門に手をかけ、真っ暗な家の中に入ろうとして、私はふと足をとめた。

 あぁ、違う。

 ここはもう私の家じゃない。

 きびすを返したとき、なんだかすこし悲しくなったのを覚えている。

 それからしばらく時間が経ち、季節が冬になる頃には、そんなこともなくなった。

 そのかわり夢を見るようになった。

 うすぼんやりとした暗がりに、妹の寝息が聞こえてくる。

 すー、すー、というのを数えながら、ころりと寝返りをうつと、古びた畳の匂いがする。

 あの家の夢だ。

 ぱちりと目覚めると自分がいるのはベッドの上。畳なんてどこにもない。

 思っていたのと違う場所にいるせいで、どうにも混乱してしまう。

 目覚めが悪くて困るのだと話すと、母はふーん、と首をかしげた。

「それは、あんたの一部がまだあの家に残ってるんちゃうかな」

「えー。そんなん怖い話みたいやん」

 笑って言いながら、私はふっと自分の手に視線を落とした。

 てのひらをそっとむすび、ひらくと、記憶がゆっくりと指先へ通り抜けていく。

 廊下の木目のギシリという凹み。

 シャッターの頑固なつっかかり。

 窓際のほのあたたかさ。

「……でも、そういうこともあるかもしれんね」

 その時、誰も住まないまま古びてゆく家のなかで、ゆらゆらと私のカケラが漂うのを、たしかに感じたような気がした。

 

 来月、私はまた引っ越しをする。

 今度は家族とも離れ、本当の意味で新しい生活を始めるのだ。

 この歳になって恥ずかしい話だが、これまで家族にべったりだった私は、きっと寂しくなるだろう。今から不安でたまらない。

 でも、そんな時には、この場所にゆらゆらと私のカケラが漂うのを想像してみようかと思っている。

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