わたしの「自分史」事始め

益池 成和


「せる」が百号を迎えることになった。目出度いことである。大台の号を出すにあたって、記念号発刊時の恒例である全員参加が号令された。要するに創作(小説)を載せない者は、せめてエッセイでも書いて紙面に名前を残せ、ということである。小説を書かなくなって(書けなくなって!?)久しいが、エッセイからもそれなりに足が遠のいてしまっている。百号は目出度いには違いないが、改めて文章を求められてみると、いかようにペンを動かしていいものやら、しばしため息ばかりで困ってしまった。

 昔はこのようなことはなかった。書くべきこと、吐き出したいことがあればこそ、大阪文学学校にも通ったし、この同人誌にも加えて貰った。人間変わればかわるものである。

 わたしは今年還暦を迎えた。単なる数字上の偶然に過ぎないが、自身の還暦の年に百号が出る、というのも満更でもない。まあ、云ってみれば自己満足という奴だろうが。何が満足か分からないけれども。

 ちなみに、ご存じのかたも多いだろうが、夏の高校野球大会が始まって今年で百年で、岩波の広辞苑が丁度六十歳とのこと。ますます目出度い、と云っておこう。

 

 先日このグループの創立メンバーである岡藤さんから、創刊時からの掲載作のリストアップ表がEメールで送られてきた。その無題の添付ファイルで知ったのだが、どうもわたしが「せる」に入ったのが1989年のことらしい。二九号の欄に「卯の花くだし」益池成和、と印字されている。記憶に齟齬がなければ、その前の号で目出度くデビューのはずが、編集会議に作品を持ち込んだものの、自ら引っ込めてその号になったはず。断っておくが、先輩メンバーに苛められたわけではなく、単に自意識過剰が招いた結果だった。それだけわたしは若かったのである。

  そのようなことをぼんやりと考えていると、文校に通い始めた頃「自分史」なる言葉を頻繁に目にするようになったことを思い出した。この言葉、今では立派に世間に根付いている。現在の文校にこれに該当するカリキュラムがあるのかどうか知らないが、たいていのカルチャーセンターには現役として存在するのではないだろうか。たまたまだが、本日(9月7日)の朝日新聞の紙面にも「朝日自分史」なる言葉が半面使って踊っている。

 

 実を云うと「自分史」という言葉、当時のわたしにはもうひとつピンと来なかった。意味合いが取れなかった、ということではむろんない。 

 わたしが「せる」に入会したのが1989年だとすると、文校に世話になり出したのはその三、四年前のこと。となると、三十歳になったばかりの年齢だろう。ようやく二十代を抜けたばかりの男に、語るべき何事もあろうはずもなかった。

 三十男となると、人によっては組織や、あるいは早熟な人間ならば起業などして、世間にそれなりの地位や名声などを得ている輩もいるが、わたしの場合、二年間の勤めのまねごとをこなしはしたものの、大学を出てからは、親の経済力を頼みになかば引きこもりのような状態で、ひたすら小説家の夢を温存していたに過ぎない。しかもその実態は、某地方紙の短篇小説の公募に一度挑戦しただけで、むろん受賞どころか一次選考にすら名が残らないという体たらくで、創作上の戦績は今に至るまでそれだけである。まあ、夢を玩弄するだけで人は生きていけるという見本みたいなもので、かような男に「自分史」なるものは、一抹のうらやましさは生じるものの、どうかするとうざさだけが渦巻いたとしても仕方ないだろう。

 

  繰り返しになるが、わたしは今年還暦を迎えた。六十年生きてきた、ということである。改めてその事実を噛みしめてみると、しばし唖然となってしまう。その時間の長さゆえ、ということではない。先程の夢の話からも窺い知れるように、他人様に誇れる実績という意味では、実に空疎で何もない人間と言わざるを得ないからである。六十にして社会的地位も名声も無く、それだったら、せめて人間の雄として、種族の果たすべき責務ぐらい全うすべきだろうに、ご覧の通り妻帯することもなく、むろん子供もいない。ため息ばかりが出ても、まあ仕方あるまい。

  泣き言はこのぐらいにして、話を元に戻そう。 

 格好ばかりの小説家の夢だったが、このことは、わたしに文校への縁を結んでくれた。家にこもって独りしこしこと原稿用紙に向かってばかりでは、自分の書く人間としての立ち位置を計ることが出来ない。本当に物書きを希求する者ならば、懸賞小説の戦績がそれを物語るはずだが、応募しないで済ましてしまうのだから目測のすべがない。

  なかば引きこもりのような二十代を過ごしていたせいもあったのかも知れない。最初の半年は通信教育を選んだのだが、すぐさまこれでは埒が明かないという気になって、通学の方に思い切って変更して貰った。これがよかった気がする。

 通信教育科では人との触れあいはごく限られたものになってしまうが、通学となると毎週人との接触が生じる。ことに文校の場合、大学のように講義めいた事も少しは行われるが、基本が今も昔も参加メンバーによる合評で、一寸余談めいた話になるが、おそらくこの合評の重視が、今日まで大阪文学学校を存続させている主たる事由ではないだろうか。

  この頃つくづく思うことがある。結局この世の中は人と人との触れあいに尽きるのではなかろうかと。悪しきこととして時折世間の話題にのぼる「引きこもり」の病理の根本に、この接触不全がある気がしてならない。どう足掻いたところで、人は独りでは生きていけない。会社や、地域との交わり、あるいは「せる」のような私的サークルの場合でもこのことは云える。皆が集うからこそ何らかの事が生じ、次の何かが導き出される。

  大阪文学学校に通い出して始めて、わたしは世間や社会というとらえがたきものに接触しだした気がする。

 

 わたしの文校体験において、忘れがたき人が二人おられる。当時この組織の理事を務めていたフランス文学者の小島輝正氏と、事務局を任され講師もこなされていた高村三郎さんである。

  高村三郎さんは、どこか昔の事件ものを扱った日本映画に出てくる、新聞社の辣腕デスクみたいな雰囲気の人だった。太り気味で、辛辣な指摘を平気でしながらも、最後はいつも笑顔を向けて煙に巻くようなところがあった。ずるい人だなあと、何度唸ったことか。今ならこの人の批評の仕方はたいして驚きに値しないのだが、何しろ文学との触れあいが始まったばかりの時である、彼の作品を読み解く一言一言が、まるで手品か魔術でも見ているようで、感心ばかりさせられた。この書き物にこのような主題が隠れていて、このような展開が可能なのかと。

 創作も当然いくつか読んで貰ったはずだが、厳しい言葉が返ってきた記憶がない。どちらかというと、褒められた方が多かったのではないだろうか。わたしが他人の小説を批評するときでも、「結構まともなこと言ってるじゃないか」という目つきを向けられていた気がする。

 わたしは高村さんから自信と云うものを教わった。評価に値するものを書けるようになった、という意味ではない。文学上の立ち位置が分からなかった人間に、結構それなりのところにいるのではないか、という自惚れをもたらしてくれた人だった。

 

 小島先生とは実に短いお付き合いだった。秋のクラス替えで小島クラスに編入されたが、おそらく数えるほどしか顔を合わせなかったはず。何故ならわたしが作品批評を受けた後、それは師走の事だったが、あったとしても一回ぐらいクラス会が行われただけで、それ以降休講になってしまったからだ。年が改まって教室に出てみると、高村さんがテーブルの中央に座っていて、代講を口にした。以後、小島輝正氏の姿を見ることはなかった。お亡くなりになられたのはその五月のことだった。

 小柄でいつも引き締まった顔つきの人で、合評時も皆がさんざん意見を交わし合った後、最後だけ短くコメントして締めていた。とにかく多弁でない印象が強かった。

 ところがわたしが出した作品に対してだけは、のっけから実に口数が多かった。いや、多いという程度の話ではなかった。開口一番、駄目出しからはじまった。それが小一時間続いた。全否定の解説が終わって、ようやく参加メンバーひとりひとりに批評が回されたのだが、なかには好意的な意見もあったが、それをいちいち小島先生が受けて駄目出しに変えていった。

 わたしにとって実に長い合評だった。原稿用紙に目を落としたまま、黙って耐えるしかなかった。あれほど、理不尽な思いを味わったのは後にも先にもあのときが初めてだった。

 ボクシングの殴りあう場面から始まる小説だった。破り捨ててしまったので、どのようなことを訴えたくて書き上げたのか確かめようもないが、いまだになぜあのようなことになったのか理解できていない。ただ、冒頭のセンテンスを取り上げて、こんなに悠長に殴り合っていては試合にならない、と決めつけられたことだけは記憶に残っている。

 その当時はクラスにサブチューターがいて、酷評を受けたわたしを見かねてのことだったのだろう、二次会の飲み屋の席で(たしか文校近くのお好み焼屋「DAN」だったはず)、小島先生はSF小説や、スポーツものはお嫌いなのよ、みたいなことを言われたが、何の慰めにもならなかった。わたしはそのとき、「よく怒られる人なんですか?」と尋ねてみた。「昔はそういうことも結構あったが、最近は滅多にないわね」というのが答えだった。

 もしかすると不遜な思いを見抜かれたのかも知れない、と思うようになったのは随分後になってからのことである。文校のテーブルの前で、どうだ、俺は上手いだろう、という顔つきをしていたに違いない。

  真意は確かめようもないが、一つだけ云えることは、手厳しい批評の場にさらされたことが、わたしにどのようなかたちであれ、文学というものと関わり続けることを運命づけた、ということである。小島輝正氏といえば、当時の関西圏の同人誌界の重鎮だった。残された著書も数多い。そのような人が、病を押して叱責の言葉をわたしに残したのである。そのことに何らかの意味がある、ととっても宜なるかなあ、である。いつの間にか、この出来事はわたしの密かな「勲章」となっていた。

「せる」にこのお二人の文章が寄稿というかたちで残されている。最初の記念号と呼んでいい1986年9月発刊の二十号である。わたしはまだ所属していなかった。時間というものは、やたら速くに流れ去っていくものらしい。  

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