七十年以上も生きてくると、どうしても気になる謎がいくつか沈殿している。最大の謎は母方の祖父の死にまつわるものだ。いつごろからそれを謎と意識するようになったのか、判然としないほど古い謎である。
祖父が亡くなったのは昭和二十一年、私が小学校二年生の、おそらく夏休み中の出来事だった。かまぼこ型の旧兵舎を戦前の結核療養所から持ちだした大量のシーツのカーテンで仕切り、十家族ほどで住んでいた。電線もトランスも盗まれ、窓や入り口の扉も盗まれて屋根と壁と床のみのバラックに、人数分のリュックサックと九州の親戚に貰った行李、あとは卓袱台だけが家具の、引揚者という難民暮らしであった。
そんな家にも所番地はちゃんとあって、ある夕方電報が来た。最初の電報は祖父が行方不明となっているが、そちらへ来ていないかとの問い合わせだった。チチシスという叔父からの電報がその二、三日後に追いかけてきた。七輪の上でさつま芋の鍋が焦げ付き、祖母が指先を火傷したことだけが私自身の記憶であるが、その後繰り返し聞かされた父母や祖母、兄の思い出話でその夕方の情景は私の中にくっきりしたものとなって残っている。祖父は配給の青酸カリを飲んで自殺したという。
自殺という言葉は不吉なものとしてほとんど禁句であった。人前では祖父の自殺を語ってはいけない。縁談や就職に差し支える、といわれたものだ。しかし、母は時折、どうしておじいちゃんは死んじゃったんだろうね、とつぶやくように言っていた、他人には言えない家族の謎であり、質問するのもはばかられる雰囲気があった。
私の一家は父方も母方も明治三十年代、日韓合併の前後に渡韓、ブームのように渡韓した日本人のために父方の一族は子弟の教師として首都京城に、母方の一族は先祖代々の生業であった酒造業者として北鮮の元山に住み着いた。終戦と同時に朝鮮半島には三十八度線が敷かれ、南鮮から北鮮への移動は一切できなくなった。日本人の引揚は米軍の支配する南鮮からはリュックサックひとつの着のみ着のままとはいえ、順調に行われたが、ソ連の支配する北鮮では多くの男性がシベリアへ連れていかれ、暴行、強奪、強姦、発砲事件が頻発する中を徒歩で三十八度線を突破し南鮮に脱出しなければならなかった。
終戦時、元山で酒造業を営んでいた祖父の一家では、働き盛りの叔父が出征し、不在である。叔母は次女を出産後半年もたっておらず、手伝いに来ていた姪が二人、六歳の長男、五歳の次男、三歳の長女と嬰児の次女を抱え、頼りになるのは片言のロシア語でソ連軍司令官と交渉にあたったしっかり者の祖母だけだった。
翌春、祖父は四人の女性と四人の幼子を連れて三十八度線をようやく突破して帰国したのだった。復員してきた叔父と共に郷里の広島県鞆町に落ち着いて、わずか数か月後になぜ自ら命を絶ったのだろう。
日本は復興し、高度成長の中、私は成人し、結婚し、子どもを産み、離婚して社会に出て働くようになった。このころになって、実家の古いトランクの中に青酸カリの小瓶を見つけた。戦争末期になって、海外在住者にはいざというときには自決するようにと青酸カリの配給があったらしい。よくまあ、何十年もこんなものを保管していたものだ。祖父が使ったのも、同じような来歴の小瓶だったに違いない。小さな茶色の小瓶はてらてらと光り、すかしてみると中ほどまで入った白っぽい粉末が固まりかけていた。これで何人も死ぬほどの毒薬と思うと、瓶を持つのも恐ろしい。こんな気味の悪いもの、早く捨てなさいよ、と母に言ったが、捨てるのも怖い、と母はまたそのままトランクの奥にしまった。ようやく瓶の中身を捨てたのはそれからさらに十年以上たってからである。引っ越したマンションに水洗便所がついていたのだ。祖父の死について詳しく聞いたのはそのころのことだった。
兄の友人が鬱病にかかり自殺したのだった。おじいさんも老人性の鬱病だったのかなあ、と私は言った。一代で築いた財産を、なにもかも失くしてしまったのだからね。よほど辛かったのかもしれない。しかし、母は違う、違う、とむきになって否定した。鬱病は精神病でしょう。違いますよ。と言葉を強めた。
おじいちゃんは特攻隊の子の世話をしていたのよ。特攻隊の司令官に頼まれて、出撃する前夜、うちに泊めて思いっきりご馳走してね。おじいちゃんとおばあちゃんは出撃する子たちとその晩は一緒に寝たそうよ。内地からは遠いので、私たちをお父さん、お母さんと思いなさい。君たちだけを死なせはしない。あの世でまた一緒に酒を飲もう、と言っていたそうよ。おじいちゃんはあの子たちと約束したから死んだのよ。引き揚げてすぐ、おじいちゃんとおばあちゃんは特攻隊の子の遺品をもって、遺族を訪ねて回ったそうよ。だけど、いやなことがいろいろあったらしいのよ。お祖母ちゃんが後でそんなことをいっていたわ。ひどい時代だったからね。何かものをもらいに来たのかと思われたり、あんたが息子を殺したのだというようなことを言われたりしたらしいのよ。遺書には何もそんなことは書いてなかったからねえ。わからないといえばわからないけど、きっと、それが原因よ。特攻隊の世話をしたのがいけなかったのよ。
ふーん、と私は聞いていたが、半信半疑だった。母は少し芝居がかった話が好きである。朝鮮の元山に特攻隊の基地があったなどという話は聞いたことがなかった。本当に特攻隊の基地などあったのだろうか。兄に母から聞いた話をすると、兄も、その話は怪しいなあ、という。元山に特攻隊があったなんて聞いたことがない。妙に物知りの弟も、元山の特攻隊なんて聞いたことがないなあ、という。
それでもドラマティックな話ではある。文学学校に入って二年目、この話を小説にしてみた。当時二歳だった従妹が『樹林』在校生特集号にのったその作品を読み、叔父に聞いてみたそうだ。叔父は自分が出征中のことで、特攻隊のことは全く知らないという。祖母も叔母も他界している。従兄、つまり、祖父と一緒に帰国した子にも聞いてみた。やはり、特攻隊の話なんて知らないなあ、という。一緒に住んでいたのに知らないのなら、やっぱり怪しい話かなあ、というと、いや、僕は小さかったから何にも覚えてない。なあんも知らん、知らん。こう何もかも否定されると、ますます謎が深まるような気分になる。母には何度も問いただしたが、ほんとのことよ、と全く動じない。
お母さんがそういうならば、そういうことにしておこう、と、兄とも弟とも話し合ったが、解決されない謎はいつまでも心のどこかに引っかかったままだった。
それからさらに十年以上が過ぎた。阪神大震災で芦屋のマンションが全壊して、田舎に家を建てた。私も夫も定年を迎え、田舎に住むことになった。震災の年に父と叔父が亡くなり、その五年後に母が亡くなった。田舎ではパソコンが友になった。パソコンがあれば何でも調べられ、ブログも書ける。退屈しない。もっともパソコンがなくとも退屈しないほど、田舎の生活は充実していた。しかし、思いついた時に調べられるという便利さはすばらしい。ふと思いついて私は「特攻隊 元山」と入れて検索してみた。
あった。元山に特攻隊がいたのだ。
海軍元山航空隊七生隊がそれである。元山航空隊は予備学生の墓場といわれていたそうだ。予備学生とは学徒兵であり、元山の七生隊で特高出撃したものはほとんどが旧帝大の学徒兵であった。昭和二十年四月六日に始まった「菊水一号作戦」は最終の五月十六日の「菊水六号作戦」までに四十四機が出撃し、うち、帰還したのは四機のみであった。
この航空隊の司令は元ミッドウェー海戦の戦艦赤城艦長青木泰二郎であったが、昭和二十年八月十一日、一部の部下と家族を連れて飛行機で日本に帰国、残された部下は終戦後すべて捕えられ、シベリアへ送られた。そのため青木司令は敵前逃亡司令と部下たちから指弾されている。
祖父の死の謎の一端が初めて明らかになったような気がした。もちろん真実はわからない。しかし、死に至る祖父の気持ちになにがしかの納得ができた。
この青木司令のような人物は今の日本にもきっといるのだ。戦後七十年、締め切りに迫られてこれを書いているたったいま、国会では安保法制が通過したところである。