佇む

中尾 元六


                        

 定年前の年齢となって、仕事の内容は若い頃とはずいぶん違ってきた。

 かけだしの頃、求められたのは、職場の一つのパートを確実にこなしていく力であったような気がする。それを何サイクルか繰り返していくうちに、いつのまにか中堅、と呼ばれるような年齢となり、任されるパートが二つ、三つと増えていった。五十を過ぎる頃から、体力の衰えとともに最前線に回されることが少なくなっていき、後方支援担当として仕事をすることが多くなっていった。しかし残念なことに、その仕事は敬老精神に則って振り分けられたものではなかった。一つのシステムとして仕事全体をとらえるとき、どうしてもその機能を維持するために必要な仕事というものが生じる。いわゆる雑務、段取り、調整、下準備と呼ばれる仕事である。たいていはその仕事は本務とは一見関係のないような顔をして佇んでいるが、丁寧に扱わないと牙をむいて襲いかかってくる。そのような仕事は、ほとんどが勤務時間中には終わらない。業務が一段落つく午後7時を過ぎる頃から次の日の業務準備が始まり、翌日の午前7時台の時間からは当日の実務の準備に追われる。9時から5時が勤務時間であったという夢のような時代があったらしいが、自身はとんとお目にかかったことがない。そうなってくると、当然月曜日から金曜日の平日のうちに業務が終了することはまれである。このごろはこの業界でなんとか生き残るために、営業がとみに強化されて、セミナーの開催なども休日に業界横並びで行われるようになったので、休日出勤は常態化している。その休日営業の用意も、当然しなくてはならないし、その事後処理も行う必要がある。そんな日常をあたふた過ごしているうちに、身体のほうが悲鳴を上げ始めた。心はいつまでも二十歳代のままであるということは、年齢を重ねてみて確認することができたが、身体が衰えていくという事実は、現在進行形で経験するしかないようだ。原因不明の神経麻痺ということで、三ヶ月間の休職期間を経て、ようやく職場に復帰したと思ったやさき、今度は家族を介護をする必要が生じ、時間的な余裕は全く失われていった。全く文学的ではない日常である。

 そんな日常の中で、近頃親しくしている知らせは、訃報である。身近な人がいつのまにかいなくなる。先日は、同じ職場でいつも通りに週末の挨拶をして別れた同僚と、月曜日の夕刻には通夜の席で会うことになった。祭壇の上に飾られたにこやかな写真が、別れた時と同じ顔だった。妙に明るい表情だった。

 通夜の間、鬼籍に入った人たちの顔が次々に浮かんできた。

 文学の師であった高村三郎氏、文学学校研究科チューターの木辺弘児氏、同人誌「せる」の清水康雄氏。最も近い別れは清水康雄氏であった。壁を作らない人であった。酒が飲めないという共通点が、二次会での席を近くしていた。淡々と語る批評が、精密な構造物を見るようであった。長い漂流のあげく、ようやく大阪文学学校に流れ着き、その後も「せる」に拾っていただいた、その信貴山での合評会の時、会場に向かうケーブルカーの中で気遣いの言葉をかけてくれたことを忘れない。

 かつての同僚の現職死も数えてみた。一人、二人、三人、四人、五人、六人、知らないでいるうちに会うことができなくなっていた。そういえば、親しくしていた小学校の同級生もいなくなった。これは年賀状が、その同級生の家族から返信されたことで知った。あっけないものであった。

 人間とはいったい何なのであろうか。世界とはいったい何なのであろうか。

 もしかしたら自身であったかもしれない存在の崩壊を目の当たりにして、くすぶり続けてきたその根源的疑問がまた浮き上がってくる。致死率100パーセントの存在であるにもかかわらず、毎日の雑用だけでその資源を食いつぶしている身に。

 ここに、一つの答えがある。

 人間とはいったい何か、という問いに対する答えである。

 人間の持つセンサーは、五つ。目と耳と鼻と舌と皮膚等触覚を感じるもの。それだけである。それらのセンサーから得た五種類の情報は、脳によって統合され、認識を作る。その認識に基づいて、様々な営為を行う存在。これ以上でもなく、これ以下でもない。

 この答えに従えば、生きるということのどこにも意味を見いだすことはできない。センサーに触れる五種類の情報と、認識の明滅があるばかりである。

 さらに、世界とは何か、という問いに対する答えも明確となる。我々が五つのセンサーから得た五種類の情報と、その情報を統合して作った認識が、世界のすべてということである。これ以上でもなく、これ以下でもない。

 このような境地に身を置くことができるなら、それを幸福と呼ぶか、不幸と呼ぶか。いや、そもそもそのような判断自体が意味をなさないものとなるのかもしれない。

 ここに、一つの答えがある。それを前にして、じっと佇む自分がいる。

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