やっと一〇〇号まできたか、といった感じである。
私が『せる』に入会させてもらったのは、平成一二年七月だった。号数でいえば、五四号で初めて会員名簿に名前が載った。
入会してから一五年になる。それ以降、作品掲載は一〇作、エッセーは四作である。
月例会は、いつも大阪の森ノ宮周辺で行われてきた。兵庫県の三木市から行くとなると、二時間近くもかかる。それを一五年間、休むこともあったが月に一回通ってきた。続けてこれたエネルギーは、何だろうと考えてしまう。文学を始めたきっかけは、頭が惚けないようにとの思いだった。小説を読むのは好きだったが、特別に文学が好きというわけではない。
小説と接したきっかけというと、小学生時代にさかのぼる。
私が生まれたのは、田舎で、田んぼが一町八反あり、黒牛を二頭飼っている農家だった。小学五年生ぐらいだったと思う。その頃、私には毎日の仕事が決められていた。
学校から帰ってくると、釜に水と二升の麦を入れ、炊くことである。炊きあがった麦は、その日の晩と、明日の朝とに分けて、二頭の牛に食べさせていた。
昭和四〇年頃である。水は井戸から汲んで、桶に入れて運んでいた。燃やす物は割り木や、山から持って帰ってきた雑木をノコギリで切り、燃やしていた。
釜の前で、麦が炊きあがるまで、火の燃え具合を管理しなければならなかった。これが私の日課である。
当時中学生の姉が、買って読んでいた『女学生の友』という月刊誌に、付録として付いていた文庫本が家にあった。毎日、火の守をしながら、時間つぶしに読んだのが、小説との関わりである。ほとんどが、女学生の淡い恋愛小説だった。
高校時代は、なぜか文芸部に所属して、詩を書いていた。これも詩が好きというよりも、文芸部に好きな女の子がいたので、話がしたくて、入部したといういきさつである。だから、私の文学の関わりは、純粋な気持ちと、雑念が混ざり合った気持ちで、文学と接してきた。
社会人になって、スーパーの古本コーナーで激安で売っていた、黒岩重吾作品の単行本を手にしてから、いっそう小説に取り込まれた。黒岩作品は、相場師や、株の売買について、危ない橋を巧妙に渡る主人公が描かれており、その内容がおもしろくて、むさぼるように読んだ。
そんな折、自分でも小説を書いてみようと、大それた考えを持つようになった。ワープロが世の中に出始めた頃で、ワープロを駆使し、神戸新聞文芸に応募した。それが立て続けに二作が入選してしまったのである。賞金を貰い、神戸新聞に入選作品が掲載され、私は有頂天になってしまった。少し文学の勉強をすれば、芥川賞も夢ではないと、本気に考えるようになった。
そして、阪神大震災の年に、大阪文学学校の通教部に入学したのである。
大阪に出てきて、私以上に書ける人間が、沢山いることに驚かされた。やはり三木市という人口八万人の田舎町とは、比較にならないほど、大阪は大きな街だった。
大阪文学学校で五年在籍し、その間に良きライバルといえる友を得て、また、講師から同人『せる』へプレ会員として、声をかけていただき、そして会員として、『せる』に入会することができた。
これから先、何年『せる』に在籍出来るのだろうかと、考えることもあるが、ボケ防止に続けようと思っている。
一五年も文学をやると、小説とはこのように書くべきだと、頭の中でわかるようになってきた。
私の書いている作品は、ストーリーだけを追っているように思う。エンターテイメント作品として書くのであれば、これでいいのかもしれないが、純文学として作品を書くのであれば、今以上に細部まで詳細に書くべきだし、また登場人物の深層心理や、ワンカット部分を、もっと深く書くべきだと思うようになった。
思うのは簡単だが、これがなかなか書けないのである。入会当時に考えていた、芥川賞なんて、まったく夢のまた夢である。
一五年も続けてきた文学。ボケ防止に始めた文学。下手な小説だが、書くことに苦痛は覚えない。細々でも続けていくことが、頭の活性化のトレーニングだと考えれば、やりがいを感じる。
『せる』の会員として籍を置き、何号まで続けられるかわからないが、体力が続く限り、会員の仲間と一緒に、書き続けたいと考えている。