鹿児島天文館通りのはずれまで行くとアーケードはなくなるが、しばらくは商店街が続いている。四つ辻を曲がると歓楽街が立ち並ぶ通りになる。水撒きする風俗店のボーイが挨拶を寄越す。少し背筋を伸ばして会釈を返した。
年季の入った雑居ビルの二階にあがるには階段しかない。織江はスーパーの袋を右手に掛け、壁に左手を添わせながらピンヒールで一段ずつ上がっていった。黒地に赤でシルクと描かれた足ふきマットにレジ袋を降ろす。その隣に酒屋が配達していった黄色いビールケースが二つ重ねて置かれていた。鍵をあけると、昨夜のアルコールの臭いが鼻先に触れた。カウンターに郵便ポストから取り出したチラシやハガキを置き、電気のスイッチを押す。換気扇が重たそうに回り始める。
午後四時に店を開け簡単なお通しを作る。スーパーで買った茄子を洗いヘタを落として輪切りにし、フライパンにたっぷりの油で焼く。合わせ味噌に砂糖を入れて絡ませた。これは昨日、客の三浦が食べたいと言っていた関西地方の惣菜だった。三浦は数か月前にふらりと独りで店に入ってきた客だ。東京でプログラマーをしていたが辞めて旅にでたと言う。ほぼ毎晩、シルクにやってくる。黙って静かに飲み、時折、眉間に深い皺を寄せて苦い顔をすることもあった。そんな三浦と話すようになったのは、織江が作る鹿児島の郷土料理が甘くて好きだと言ったのがきっかけだった。
午後六時をまわるころにはカウンターの席は満席になった。三浦がなかなか現れず気をもんだがなんとか空席のあるうちに来店した。三浦が初めて店に来たときは、剃刀で剃ったような坊主頭だったが、いまは五センチほど黒い髪が伸びている。白波のロックをグラス一杯に注いでやると嬉しそうに笑った。
ハイボールの注文が続いたせいで、店の炭酸ソーダがなくなってしまった。バイトの女の子が来るまで待てず酒屋まで買いに出た。戻って店のドアを開けると、入口に宗一郎が立っていた。大柄でぽっちゃりした体型に変わりはなく、首をななめにかしげ、顔から汗が流れている。織江はごめんねと口を動かしてカウンターの中に入って行った。謝ったのは、ここで一緒に客として飲もうと約束していたからだ。宗一郎には体を壊してシルクを辞めていて、昼間働ける仕事を探していると言ってあった。チーママを辞めたのは本当だが、シルクに新しい人が入らず、結局ママに泣きつかれるまま、同じペースで働くことになっている。それをちゃんと訂正していなかった。
宗一郎の席は三浦の隣を取っておいた。椅子を何度か動かしてようやく座ると、「これ」と言って紙袋を織江に手渡した。
「あ、モロゾフのプリン。大阪の実家に帰ってたんだ」
織江は中を覗いて言った。
午後十時、店の中は織江と三浦と宗一郎の三人になった。三浦は宗一郎のキープしていたウイスキーを貰って飲んでいた。三浦が、宗一郎を旅行者だと思って話しかけていた。イントネーションから関西出身と分かり、宗一郎も同じ大阪の近い町が出身だったので話が弾んでいるようだったが、やがて話題もつきたみたいでふたりとも黙りこんでいる。
織江は片づけを済ませ、カウンターを挟んでふたりの前に立った。
「バタバタしちゃって。宗ちゃん、ごめんね。ママに頼まれちゃったから断れなくって」
織江がそう言うと、三浦の顔つきが変わった。宗一郎はそう言われたのが嬉しかったのか水割りのお代わりを自分で作っている。
お勘定と三浦が言って席を立った。織江は慌てた。
「どうしたの。三浦さん、まだ、帰らなくっても。わたしもいっしょに飲ませてもらおうって思ってたのに」
そう言って、織江は宗一郎をみた。
「三浦さん、織江さんが頼んでるんだし、たぶん、これからは奢りだろうから、少し付き合いませんか」と宗一郎は三浦をひきとめてくれた。
しばらくすると、三浦がまた帰ると言ったのでそれに応じた。宗一郎には下まで送るといい、三浦と外にでた。
織江が話かけても三浦は応えないので、腕を取って引き寄せた。三浦の体温が織江の胸元に伝わる。手を腕からずらして三浦の大きな手をつかんだ。その手を自分の胸の上においた。
「いつもの焼鳥屋で待ってて。このまま帰るの嫌。ね、いいでしょう」と顔を見上げた。
「上の彼氏に悪いやろ」三浦の手が織江の胸の上で動く。
織江が黙っていると、
「あの人も一緒に連れてくればいい」
そう言うと手をほどいて、大股で歩き去った。
階段を駆け上がった。ドアを開けると、宗一郎が不安そうな顔でこちらをみてきた。
「三浦さんがね、もう一軒いきませんかって。宗ちゃん、行くでしょ。行こうね」
織江は宗一郎の返事を待たず、コップや灰皿を洗い、レジのお金を取り出して、空のアイスペールの中に入れた。化粧も直したかったが、焼鳥屋に行くのが遅くなると三浦が帰ってしまいそうに思いやめた。
宗一郎の前に来て促すと、宗一郎は胸のポケットから封筒を取り出した。
「これ」
と、言って差し出す。織江はそれをじっと見た。それから宗一郎の顔をみる。
はっきり言ってしまえば、三浦があらわれるまでは、宗一郎が想いをよせてくれることも嫌ではなかった。もとは店のアルバイトの子にフラれたのを織江が慰めているうちに、今度は織江に惚れるようになった。その程度の男だと軽くあしらっていた。
「なんで優しいの。わたし、宗ちゃんに何も返してない。お金だけじゃなくて、沖縄の家にも行ってないし、大阪にだって」いつもするように、宗一郎の腕の中に入って目を瞑り顎をあげる。一瞬、唇が重なり離れていった。
織江は宗一郎からお金を貢がれていた。あるとき、酔ったいきおいで織江の方から宗一郎にキスをしたのだ。それから宗一郎は本気で結婚を考えたようで、沖縄に転勤してからも毎月店に来ては封筒に入れた二十万円を渡してくれる。宗一郎は沖縄の家に織江を呼びたがったし、大阪の家族にも紹介したいと言っていた。一緒になりたいとも言った。織江はそうなればいいねと言葉を濁してきた。
アーケードのある天文館通り商店街の入口にさしかかり、目の前のコーヒーショップの中をサングラス越しに窺うと、スーツを着た腕があがりひらひらと合図しているのが見えた。織江はテーブルの奥の席につくため体を横にしながら進んだ。
幼なじみの町子がテーブルを自分の方へ引き寄せながら言った
「昨日は店に来たんでしょ、彼。また受け取ったの?」
織江は椅子に座りながら頷いた。
「そうだろうと思った。あんた、もう断るって言ってたじゃない。普通、結婚の約束もなく、体の関係もない女にお金、それも二十万も渡すなんて考えられない。宗一郎さんは、きっと大切にしてくれる。あなたももっと誠実になるべきよ」
地声が大きいので近くにいた他の客たちの視線が集まる。織江は口の前に指を立てた。ウェイトレスが注文を取ってコーヒーが運ばれるまでふたりとも黙ったままだった。
「わたしも限界かも。わたしの境遇が悲惨だと分かれば、諦めてくれるかと思ったのに」
コーヒーをひと口啜ってから言った。町子は納得したようにはみえなかった。
「そうかなあ、織江はいつも同情心を掻き立てて、結果的には男にお金を貢がせるじゃない」
「だってそれは事実じゃない。お祖母ちゃんはお祖父ちゃんに殴られ過ぎて頭変になって、裸で表を出歩くし、お母さんもお父さんに蹴られて骨折って、揚句に女作って家出て行かれるし、わたしもDV男と結婚。すごくない! わたしの家系DV一家だよ。お金なんていつもなかった。向こうが同情してお金くれるのなら、もらうわよ」
織江は一九歳で結婚、半年後に息子を産んで結婚一周年の頃に夫のDVから逃げるため、他県の大学に行き一人暮らしをしていた町子の部屋にかくまってもらっていた。
「それはわかるよ。わたしも小さいときに織江のお祖母ちゃんが裸で歩き回ってて、近所の人が織江ん家に呼びにいくの見てたし。家、遊びに行ったら襖や壁が穴ぼこだらけだった。でもね、いまは親の都合で生きてる訳じゃないでしょ。わたしから見たら、織江はそこから抜け出そうと本気では思っていない気がする」
いつもなら織江に貢ぐ男のことなど気にしない町子が今回はしつこい。
「わたしはシングルマザーで一九歳のバカ息子と自分の母親と祖母を養わなきゃならないって身の上話をしただけ! あと、一八歳から三十八歳のこの歳まで結婚してた一年を除いて、昼のパートと夜の水商売をしてきたおかげで体がボロボロだって言っただけ! 工務店の社長の娘のあなたとは生まれ落ちたときから違うのよ」
すると、町子は「違う。どうして分かってくれないの」と言って泣き出した。
織江は三浦のことを聞いてもらいたくて呼び出したのだが完全にきっかけを失った。
町子は仕事の打ち合わせがあるからとレシートを掴み会計を払って出て行った。
もうすぐここを離れると三浦が言った。ひと月前に宗一郎が来た時に、話題にでていた「炭焼き職人」になる算段がついたのだそうだ。
「そんな大事なこと、なんで一言も言ってくれなかったの」
他の客に聞こえない様に顔を近づけて言った。三浦の彼女だとは思わないが、週の半分は三浦の借りたウイークリーマンションに泊っていた。いくらだって話すことはできたはずだと思った。店ではそれ以上話をしなかった。
家に帰ってからも携帯を気にしていた。三浦から電話がかかってくるかもしれないと待っていた。その間に宗一郎からのメールが届く。内容は、大阪に一緒に行ってもらえないかというものだった。宗一郎の姉に紹介したいのだと言う。織江はすぐに無理だと返信をした。すると、すぐに「理由はなんですか?」と返ってきた。織江は宗一郎に苛立ちを覚えた。返信画面に切り替え、空白のディスプレイを睨んでいた。
――宗一郎さんのご厚意に甘え過ぎていました。本当にごめんなさい。お金は少しずつ返します。どうか、わたしのことは忘れてと、そこまで打ってから、全部消去した。改めて、
――わたしたちがまだ結婚するとも決まっていないのに、宗一郎さんのお姉さんにお会いするのは順序が違うと思います。ごめんなさいと、打って送信した。
店宛に三浦からハガキが届いた。あれから数日しか経っていなかったが、三浦は一度も店に顔を見せなかった。ハガキの住所は滋賀県だったが、消印をみると鹿児島から投函されていた。文面には、長年の夢であった炭焼き職人として人生を再スタートさせましたと書いている。自治体のIターン事業のひとつに林業従事者を募るものがあり、住む家、土地は仕事についている限り永久使用ができる。これからそこに炭を作る窯を自分で作るとワープロの文字で打ってあった。
織江はあの夜、電話をよこさなかった三浦に腹をたてて、ずっと自分から連絡することをやめていた。こんなことなら意地を張らず連絡をすればよかったと後悔し、無性に三浦に会いたくなった。会って三浦の気持ちを確かめたいと思った。
四月半ば過ぎ、ぐずぐずしているとゴールデンウイークにかかってしまうので、店に休みをもらい、大阪までの航空チケットを買った。多羅尾温泉に宿を予約するときに三浦の住所への行き方を訊いておいた。飛行機は一時間で伊丹に着いたが、電車を乗り継いで伊賀上野に着いたのはそれから三時間後だった。駅からタクシーで三浦の住所に行くまで三十分近く走った。長距離に気をよくした運転手がこの集落には炭窯があるのだと説明してくれた。タクシーは峠を越えるとすぐに山道に入って停車した。運転手は支払いのとき携帯番号の書かれたメモを差し出した。帰りも呼んでくれたら時間に迎えに行くからと言った。
降りたところは私有地のようだった。奥に見える家の方へ歩いていくと、手製の門が半開きになっていた。家が近づくにつれ、カンカンとトタンを叩くような音が聞こえてきた。勾配を上がりきると、頭にタオルを巻いた男が山の斜面に掘られた穴の上に屋根を取り付けているのが見えた。
「こんにちは」
その男の背中に声を掛けると、振り向いた。三浦だった。
「何できたん?」
彼の顔は笑っていなかった。
「会いに来ちゃった」
反応を確かめるように言った。すると、
「俺はこういうの嫌やねん。鹿児島離れると言いに行ったけど、無視したやろ。それで分かったもんやと思ってたのに……」
ざざっと砂利が鳴った。三浦が脚立から降りて近づいてくる。
「わからないよ、そんなの。無視したのはショックだったから。話す機会はいくらでもあったのに決まってから言われたら、誰だって傷つくし、腹をたてるでしょう」
「じゃ、なぜ話さなかったのか聞けよ! 君は自分の生き方がないからだよ。俺とセックスして好きになったら俺といることが生活の中心になる。ついて来ようとするか、行かないでくれと言うか、どっちかだ」
「なんでそんなひどいこと言うの」
三浦の方へ駆け寄り腕を掴んだ。
それを思いっきり振りほどかれる。その勢いで織江は砂利の上に横倒しになった。
「頼むから、ほっておいてくれ」
三浦が声を荒らげた。
織江はよろけながらも立ち上がり、三浦にすがりつこうとした。
「俺が知らないと思ったか? 君が宗一郎さんからお金を受け取ってたこと。それも結婚をちらつかせて気を持たせてたんだってな。なんだっけ、君の幼なじみの、工務店の専務をしてる彼女が教えてくれたよ。自分がやってること棚にあげて人を責めるのかよ」
――なぜ町子が。
織江が考えていると、解約の手続きをしているときに聞かされたのだと言った。三浦の借りていたウイークリーマンションが町子の会社のものだったことを思い出した。でも、どうしてそんなことをしたんだろう。
織江は町子の真意が汲み取れず混乱した。それでも三浦にすがりつこうと手を伸ばしていったが、再び突き飛ばされ転んでしまった。三浦が近寄ってくる気配を感じ叩かれると思った瞬間、誰かの足が割って入ってきた。
「宗一郎さん! 俺が呼んだんじゃない、勝手に来たんだ」三浦が言った。
織江は顔を覆っていた腕をおろし、視線を上げていく。そこに手に火かき棒を振り上げて、肩で大きく息をしている宗一郎がいた。とたん、息ができなくなるほど震えが襲った。まったく息を吐き出せないことに恐怖を感じる。「ぐわっ」と言う音が聞こえたのが自分の声だとは信じられなかった。地面にへたりこんだまま、砂利を何度もこぶしで叩きながら「ぐえっ」「ぐわっ」と腹をえぐるような嗚咽をあげていた。しばらくたち、そうしながらもやがて、自分はなぜここで泣いているのかと問うもうひとりの自分が現れた。織江は悲しみとは違う得体の知れない感情に支配されていた。
遠くでエンジンがかかる音がして車が走り去って行った。顔をあげると、ふたりの姿はなかった。
伊丹空港の保安検査所を通るとき、女性検査官が織江の手を凝視しているのに気づいた。昨日、砂利に何度もこぶしを打ち付けたので擦り傷に加え、両手とも小指から手首にかけて真っ青に内出血しているからだ。一泊用の鞄なのに腕がもげそうに重かった。足も地面からあがらず引きずるようにしか動かせない。中に入り、スナックスタンドの横を通るとき、パンの焼ける匂いがした。織江は昨日の朝から何も食べていないことを思い出した。とりあえずクロワッサンとミルクティを買ってみたが食べる気にはならず、ミルクティだけ飲んでクロワッサンは鞄にしまった。ふと待合席の前に座る人の足元に、見なれた紙袋があることに気づいた。宗一郎が帰省の度に買ってきたモロゾフのプリンだ。大阪ではガラスの容器を捨てずに再利用するのだと言うので、織江の家にも常時十個前後捨てずに取ってある。息子の彼女や女友だちがくると可愛いと言って持って帰っていく。
宗一郎はどうしたのだろう。プリンのことを考えていたら、まるで昨日がなかったかのような気さえする。しかし、そんなはずはなかった。宗一郎に大阪に来て欲しいと頼まれたのを断り、多羅尾にいるところを見つかったのだ。あの時、宗一郎の顔を見たときからの記憶を手繰った。最後の記憶は、宗一郎の足元に鉄の棒が転がり落ちたのだ。三浦は宗一郎に殴られたのだろうか? だったら、なぜ宗一郎は何も言わずその場から立ち去ったのだ。まさか、宗一郎は自分を殴ろうとしたのか……。
搭乗が始まり、織江は列に並んで機内へと入っていった。後方の窓側の席に座るとすぐに隣の年配の女性も座った。織江が考え事をしようとする前に、隣から話かけられた。
「あなた、最近とてもつらい事があったんじゃありません? 言いようのない悲しみが伝わってくるの。あ、ごめんね、いきなり、こんな話をされたら気味悪いわよね」
その女性は織江の返事を待っているようだった。織江は面倒臭いことになったと思いながらも、彼女の風体を観察していた。年齢は五十後半から六十歳くらい。小柄で中肉、化粧も服装も家庭の主婦が旅行するときのそれとほとんど変わらない。ただ手首には翡翠のような色の大きな玉の数珠をはめていた。
「あなたの不幸は家代々に禍してきた『もののけ』のせいだわ……。あなたはそれを除霊することで気の流れがかわります。子どものころからつらい思いをしてきたんじゃないかしら……」
織江が返事をしないでいると女性は話を続けた。
「あなたは男性にたいへん好かれるようね。でも、選んだ相手はいつもあなたに暴力をふるってきましたね。ああ、お母さんもお祖母さんも同じ目にあってきた」
女性はそれっきり何も言わなくなった。
「なんでそんなこと分かるんですか」
図星とはいえ、人のプライバシーに踏み込んでくるのは行き過ぎだと思った。
「そうね。あなたも鹿児島の方でしょ。お家に帰られたら、羽須美のり子と調べてみてください。仕事はコーチングと言ってね、人には達成したい目標があるでしょう。その目標に自ら決めた方法で達成できるように、その人の特性や強みをみつけてあげるお手伝いをしています。コミュニケーションサポートなので、プライベート、ビジネス様々な対象者を相手に仕事しているの。だからつい、あなたをみて声をかけてしまったの、ごめんなさいね」
聞いたことのない仕事だったが、織江には興味のないことにかわりはなかった。
「でもね、わたしは感受性が強いの。いわゆる霊感があるの。だからこの仕事に就いたと言ってもいいわね。目に見えないから存在しない、とは限らないでしょ。はい、これ名刺」
女性は肩書きの入った名刺を織江に渡した。
疲れた、と織江はシートに深く凭れた。それから飛行機が着陸するまで熟睡していたようだ。しかも乗客はすでに降りてしまっていて客室乗務員に肩を叩かれて起きる始末だった。
機外の空気を一息吸うと、肺の中は焦燥感でいっぱいになった。生きていくのが当たり前だった昨日とはまったく別のものに囚われている気分だった。
空港で感じた焦燥感は日が経つにつれ、色濃くなり、すっかり全身にまわっていった。真っ黒な口を開けた淵へ自ら飛び込みたくなる衝動となって織江の脳裏にへばりついている。唯一、生きている証となったのは、帰郷の翌日に町子を呼び出して詰問したことだ。町子はいつものお喋りに誘われたものと思ってやってきた。そこで織江の傷ついた腕や化粧気のない顔を見て、表情が一変したのだ。
「どうしたの! 事故にあったの?」
町子は駆け寄り織江の腕を持とうとした。
「何をわざとらしい!」
織江は腕を強く振って、感情的に言い放った。織江の腕は町子の顎を直撃し、町子は尻もちをついた。
「何するの」
喫茶店の中で突然巻き起こった口論にまわりの客は静まり返った。織江は居心地が悪くなって、
「そんな恰好でいつまでもいないで、早く座りなさいよ」と促した。町子もその言葉に従い、黙って立ち上がると織江の前の椅子にこしかけた。そして、
「わたしが何をしたっていうの」
と、トーンを落とした声で訊いた。
「三浦さんになぜ喋ったの。宗一郎さんのこと。町子になんの権利があるっていうの」
すると、町子は合点がいったのか、
「織江、三浦さんに殴られたの? そうなの」
だから言わんこっちゃないという顔をした。織江が経緯を話すと、今度は謝った。三浦が急に町からでていくのは、織江と喧嘩をしたからだと思い込み、ほっとしたのでつい、織江は宗一郎からプロポーズを受けているのに、三浦さんとお付き合いしているのかと心配だったと話したのだそうだ。
「どうして町子は三浦さんを嫌うの」
織江は訊いた。
「だって三浦って男といるときの織江は別れた旦那といるときと同じだったよ。相手に異常なくらい気を遣い、言いなりになってる。知らないうちに主従をつけている。織江は気のない相手には全然気を使わないでしょ。DVの男は従の女だとわかったら、暴力とセックスで縛り付ける。もう経験して知ってるでしょう。あんな苦しんだのに……」
町子は去り際に「織江のこと、わたしの親友だと思わせてほしい、だからお願い」と言い涙を流していた。
帰ってからひと月が経つが、シルクのママには具合が悪いと言ってしばらく休みをもらった。こんなに長く家にいるのは何年ぶりだろうか。木造二階建ての借家には織江が小学校の頃から住んでいる。ずっと祖父母が住んでいたところに母親と織江が同居することになったのは、父親が家出したからだった。織江が一九歳で結婚して家をでたものの、息子のお産でしばらくここに戻っていた。赤ん坊を連れて夫のもとに帰ると、泣き声がうるさい、泣かすなと言って、織江を叩く蹴るの暴力で責めたてた。ここにいたら殺されると思い、実家に逃げ帰ったが、連れ戻されまた殴られた。
祖父は祖母を殴り、その後遺症で祖母は頭がおかしくなった。いつも上半身は裸で表にでて、独り言をずっと喋っていた。
織江の一九歳になる息子は建設会社で働いている。朝七時前に仲間の車が迎えにくる。その次に家をでるのは織江の母親だ。駅前のビジネスホテルの清掃員の仕事をして、夕方からスーパーで商品の値付けや店だしの仕事をしている。夜の仕事をしている織江が起きるのは十時ごろで、休んでいるいまも、その時間まで寝ている。
居間に降りてくると強烈な湿布薬の臭いがする。居間の隣の部屋に寝ている祖母の臭いだ。九十歳になる祖母は皮と骨だけの体になってもまだ生きつづけている。魚のようにぱくぱくと口で息をしているだけだ。週に二回、ヘルパーが来て部屋の掃除と入浴介助をしてくれる。あとは織江の母が全部世話をしていた。
「だれか、だれか」
大便をしたのだろう。織江は窓を開け放った。掛布団を捲ると、九の字に寝る祖母の体が現れた。足は二本のステッキのようだ。浴衣の裾を開き、紙おむつのテープを外す。祖母の股間の皺に茶色の粘着物が入り込んでいる。薬のせいで軟便しかでなくなっているからだ。
ウェットティッシュでざっとふき取る。祖母の体に貼りついていた糞便の臭いがたちまち広がって織江は息を止めた。そのあと、お尻のしたにペット用のシートを敷き、ぬるま湯をいれた噴霧器を股間に向けて出す。皺に残っていた汚物が流れ出てくる。そうしてウェットティッシュで仕上げに拭く。祖母は気持ちよさそうに目を瞑っている。
突如、織江の中にこの生活に縛り付けられたまま死にたくはないという思いが込み上がってきた。母のように祖母のようになりたくないと心の底から思った。こんなに激しく思ったのは初めてだ。叫びそうになるのを押し込むため、自分の部屋に駆け戻った。
鞄の中身を畳にぶちまけ、名刺を拾い出した。飛行機で話しかけてきた羽須美のり子、今はこの人しか思いつかなかった。
電話にでたのは本人ではなかった。柔らかい口調で織江の話に答えてくれた。午後からでもこちらへ来ませんかと言われ、時間を約束した。指定された場所は中央駅近く高層マンションの最上階だった。オートロックを開けてもらい、エレベーターで十五階で降りる。ドアにイデアとプレートがかかっていた。真新しいドア、内装も白に統一された瀟洒な部屋だった。靴を脱いであがると大きなリビングに北欧調の机や本棚がどっしりと据えられている。奥の個室に案内され、しばらく待っていると羽須美のり子が現れた。
「あら、あなただったの。よく来たわね。このまえより顔色もいいわ」
二メートルはあろうか、デザインものの机の向こう側へまわり、椅子に座った。桜色のシフォンのワンピースを着ているので、飛行機の中で会ったときよりも若やいで見えた。
「はい、体調が悪くて仕事を休んでいました。随分具合は良くなりました。あの……、わたし、お邪魔したのはいいのですが、何をしに来たのか自分でもわからないのです。朝起きて、家の中にいるとき、このまま変わらずに終わるのは嫌だと思った……」
「それでいいのよ」と、羽須美は言った。
「わたしはサポートが仕事と言いましたね。あなたの課題は身に沁みこんだ卑屈さを排除すること。まずこれから始めます」
織江はまだ何も分かっておらず、始めると言われても何がなんだかわからなかった。もし、高額な料金を請求されたらと、気が気ではなかった。ふと、羽須美の座る机の後ろに緑と白の薔薇が入った大きなガラスの花瓶があるのに気がついた。フラワーアレンジメントというものなのかボリュウムたっぷりの花々がラウンド状に活けられていた。
織江の視線に気づいて、
「これ綺麗でしょう。これ生花でも造花でもないの、わかるかしら」
生花でないという言葉に身を乗り出した。
「いえ、全然分からなかったです。質感は生花そのものに見えますけど、違うんですか? それに造花でもないってどういうことでしょうか」
もしかしたら謎をかけられているのではないかと身構えた。
「これはね、プリザーブドフラワーと言うのよ。生花や葉っぱを特殊な液の中に沈めて、水分を抜くの。これはわたしたちが主催しているお見合いパーティーの会場の飾りつけに使うものなの」
織江は頷いた。
「わたしがやっているのは、コーチングといいましたが、そのコースに入ってする方法と、スタッフとして研修してもらう方法とがあるの。コースは全行程をやると三十万かかります。スタッフの研修というのは、お見合いパーティーに参加される男性たちに洋服のコーディネイトや話し方のレッスンの相手をして、成婚のお手伝いをする仕事。それをするための、研修なのだけど、あなた自身が変わるところから始めるので、中身はコーチングと同じ。スタッフになったらもちろんお給料もでるわ」
羽須美はここまで一気に喋ると、腕時計をみた。
「実感がわかないだろうから、今日時間があるなら、メーキャップの方法を習ってみない。会員専用のエステもやっていて、エステ資格のあるスタッフがアドバイスするの」
同じフロアの隣が会員制のエステを施す場所だった。ここに来て一番印象的なのはスタッフの女性たちの清楚さだった。大抵の男たちが彼女たちを恋人や結婚相手にしたいと願うのではないだろうか。
そこは美容サロンと同じだった。織江は更衣室に案内され、下着のうえにバスローブを羽織るよう指示された。
「こんにちは。本日わたくしが担当させていただきます」
白いスタンドカラーのジャケットとスラックス姿のスタッフが微笑んだ。そのとき口角がゆっくりあがり、綺麗な笑顔だとみとれた。
メーキャップと言っていたが、シャンプーから始まり、ヘッドスパ、手と足のリンパマッサージ、ヘアセットとフルコースだった。最後にメイクをされるのだが、気が付くと羽須美が横に立っていた。
「額、眉、頬。実は目や唇よりもここのメイクを変えることで性格まで変わってしまう力があるのよ。あなたの眉はとても細くて、額には潤いがない。頬は張りと艶がなくては駄目なの」
鏡に映る織江に話しかけながら、
「わたしがさっき言ったこと覚えてるかしら。『身に沁みこんだ卑屈さを排除すること』、あなたがいま施されているのは、男の人の興味を惹きつける専門のメイクやヘアスタイルなの。うちの女性スタッフはみなこれを始めに体験して、自分でできるようにする。それから服も指定されたものを着てもらう」
鏡の中を覗きこむようにしてから続けた。
「わたしたちの団体は、消極的で結婚相手を見つけられない男性にお見合いパーティの場で相手をみつけられるようにアドバイスする仕事と、もうひとつは、サロンといって会員限定の趣味の場を提供しているの。そこではスタッフもオフタイムで参加できる。女の価値は男からの評価で決まり、それはお金で換算される。サロンはスタッフひとりひとりが能力を磨く場でもあるのよ」
最後のお金や価値の話は、いつかでるだろうと思っていたことだった。きな臭さはあるが、まだここで逃げて帰らなくてもいいような気がした。
メイクが仕上がり、自分の顔をじっくりとみた。自分では使ったことのない色のリップグロスが気恥ずかしい。ほんとに言われたように、人相が変わったみたいだった。
サロンの仕組みがわかったのは半月ほど経ったころだった。織江はすっかりメイクに慣れ、ワンピースやフレアスカートといった着慣れない服にもようやく馴染みはじめていた。団体が契約している会場はほぼ毎日稼働していた。土日祝日はお見合いパーティが開かれる。会費三五〇〇円でケータリングサービスがつく。男女それぞれが申込みして参加するものだ。そして平日がサロンとなる。コーチングを受講している男性を始め、会員には結婚と関係ないと思われる高齢の男性や既婚者もまじっている。最初はお見合いパーティと同じく三五〇〇円の会費で始まるが女性はすべて団体のスタッフだ。最初何も分からず、会場でぼうっとしていたら、六〇代くらいの男性から話しかけられた。相手の話に合わせていると、どうも向こうは目的があって近づいていることに気づいた。
織江が対応に困っていると、先輩スタッフが助けに来てくれた。その日会が終わって、帰り支度をしていると、助けてくれた先輩スタッフがやってきた。
「織江さん、みなさんにとても評判がよかったわよ。それと、ごめんなさい。最初は誰もこれが何の会なのか説明を受けずに参加するのが決まりなの。少し時間、いい?」
「はい、もちろん。今日はありがとうございました」
「サロンではね、会員の人の趣味やおしゃべり、食事なんかの相手をするのがわたしたちの役目というか、オフでのわたしたちの個人営業になるの。たとえば、今日織江さんに声をかけてきた人はね、カメラが趣味なのね。それで織江さんにモデルになってもらいたがっていたんじゃないかな。織江さんはそれを引き受けてもいいし、断ってもいい。ただ、時間制で向こうはお金を払わなければならないの。一時間一万円。織江さんが仮にモデルになることを承諾する。二時間かかりました。そしたら二万円を受け取る。そのうち三〇パーセントを団体に支払う。時間一万円は何をしても一緒」
つまり、男の興味を惹きつける専門の「メイク」と「衣装」をつけ「化けた」織江が「不幸な男」が集まる場所に積極的に「営業」にでかける。スナック・シルクでやっていたことと変わらなかった。でも、大きな違いはシルクでは男たちに容姿を誉められたり、憧れの眼差しでみられたことなどただの一度もなかった。
二回目もカメラが趣味の男が話しかけてきた。そこで織江はその男からここの話を聞きだそうと思った。もしこの会自体が性をやりとりするところなら、即刻辞めるつもりだ。卑屈な自分との決別のためだとか耳に心地いいセリフに対して警戒心を解いてはいなかった。
「いつもどのような場所で撮影されているんですか?」と訊いた。すると、会員の男は自分は風景や花を撮るのが好きだと答えた。カメラはデジタル一眼でフルサイズを使っているとつけ加えた。織江が、
「フィルムカメラ時代からやっておられたんですか」と、また質問した。シルクの客でネイチャーフォトのコンテストに何度も入賞する客がいて、散々講釈をきいてきてその辺りのことは詳しくなっていた。
「なんだ、君は写真をするのか」男は訊いた。
「いえ、父がむかし趣味でやっていたので、多少の知識があるだけです」
男の目から興味を惹かれたのがわかった。
織江の父は趣味で写真はしていなかった。織江が生まれたとき、国産のハーフカメラを買って成長を記録していた程度だが、当時のカメラは高い買い物だったと思う。
織江は不思議な感覚にはまっていく。会員の男が、こうあって欲しかったと思う父親の姿になっているのだ。母に暴力をふるい家族を捨てていった方ではなく。
その男に一緒に撮影に行って欲しいと申し込まれた。織江がカメラを持っていないというと、入門機をプレゼントしてあげるという。開聞岳の夕景をみせたいのだそうだ。そうして初めてのアポが入った。
織江は人の話を聞き、ときに励ましたり、褒めて相手を気持ちよくさせるのが得意だった。男たちは最初に決めた時間をかなり延長する。時間制の代金の上にチップをはずむ。そういう日々が続くと自分の内に有能感が満ちてくるのが分かった。馬鹿正直に申告しているからもあるが、織江が団体に納めるロイヤリティーが一番多くなった。
中身が空っぽだった織江の頭に、新しいことがどんどん吸収されていく。株の勉強も始めた。ワインの銘柄を覚えてワインアドバイザーの資格も取りたくなった。テレビはNHKを観る。
男というのは、努力をして、でしゃばらない控え目な女には、繊細なガラス食器を扱うように大切にするのだとわかった。水商売でしか働いてこなかったので、男はすぐに女とセックスしたがるものだと思っていた。そういう側面は同じ男の中に存在するのだろう。要は自分がどちらの扱いを受ける女なのかということだ。
あるお見合いパーティーにスタッフで入っているときだった。会場の入口近くに宗一郎が立っているのを発見した。見た瞬間、胸がざわついた。あわててバックヤードに入りパソコンで参加者名簿を開いて見た。宗一郎はコーチングの受講者で、すでに何回か受けていたようだ。住所は沖縄のまま。これを目的に来たことになる。宗一郎はどこから情報をとってきたのか考えた。この仕事をしてから、シルク周辺の人たちとも付き合わなくなった。プライベートで夜、酒を飲むこともなかった。町子とは駅前でばったり出くわしたが、何をしているとも話さなかった。織江の容姿がすごく変わったことにえらく驚いていた。
直接訊くしかないと思った。
会場に戻ると、一直線に宗一郎のもとへ歩いていく。宗一郎の着ている服、髪型を観察した。まったく以前と変わりなかった。
「こんにちは、ご無沙汰しております」
織江は微笑んだ。
「あっ、あっ」
案の上、宗一郎は口ごもる。
「宗一郎さん、わたしがここにいること、誰から聞きました?」
「そ、それは町子さん、からです」
「ほんとに? 町子には話してないんだけどなあ」
「あ、はい、そう言ってました。僕が町子さんに訊いたので、調べてくれたと言ってました」
「宗一郎さん、まずお聞きするわ。わたしに何か用があるんですか?」
言葉は直截だが、織江は棘のないように愛想よく尋ねた。
「僕はあの、織江さんを放って行ってしまったことを後悔してるんです」
「なんで」
「三浦さんとの関係を嫉妬して。だから、もう終わりだと思って、何も言わずに帰った」
「それは当然そうでしょう。わたしは宗一郎さんの気持ちを知っていて、それには応えずに、二十万もの大金を何か月も貰い続けていたのだから。謝るために会員になったの?」
宗一郎はそれには答えなかった。
宗一郎は進行係のスタッフに促されて女性参加者のところに行った。落ち着きなく体を揺らし、空調のきいた部屋でひとり顔に汗をかきハンカチで拭っている。織江は内心いったい何しにきたのだと思った。もし今の織江ならば、宗一郎の申し出にもさらっと答えがだせたのだろうと思った。宗一郎と視線が合った。これで五回くらい合っている。このおどおどしたところが宗一郎そのものといってもいい。織江は宗一郎が客でなければ、相手にしなかった。人に好かれる努力もせず、粘着質につきまとうような男は決して選ばれない。もはや、宗一郎に貰ったお金も単なる仕事の対価だったとしか思えないのだった。
織江は仲良くしているスタッフを手招きして、宗一郎を指差し、
「あの男性ね、以前わたしが勤めていた店の常連客だったの。親切にしていたら勘違いしてしまって、ちょっとこじれたの。わたしが勤めを辞めて解消したと思ってたのだけど、ここを探しだしてお見合いパーティーに参加してるの」
「ええっ、ストーカーじゃないですか。大丈夫ですか」
「そういうあぶないタイプじゃないと思うの。お願いがあるんだけど、彼のことで何か情報があったら教えてくれる」
織江は羽須美に見込まれたらしく、一年でスタッフを束ねるリーダーに昇格した。ここではスタッフの昇格やプライベートの祝い事にプリザーブドフラワーを贈るしきたりになっている。初めて羽須美の執務室でみたのと同じ緑と白の薔薇のプリザーブドフラワーが織江の机に置かれていた。この花は最近家族で移った中古の一軒家の下駄箱の上に飾られることになった。
リーダーの仕事は管理業務でお見合いパーティーには出なくてよくなった。コーチングの方は羽須美が取り仕切っているので、もっぱら、スタッフの面接やシフト表を作ることくらいで、時間が余る。サロンに顔を出すこともほとんどない。なぜなら、織江の予定は数名の会員で全部埋まっていて、新規を入れる余地がないのだ。日々の習い事と会員との営業のことで宗一郎のことはすっかり忘れていた。
「リーダー、前に言ってた会員さんいたじゃないですか?」
スタッフが織江の執務室にやってきて言う。
「言ってたわね、吉田宗一郎。彼がどうかしたの?」
スタッフは目を大きく見開いて、
「昨日のお見合いパーティーにきてたんですよ。それが……」
もったいぶって言わないので、
「もう、早く言いなさいよ!」
織江は笑いながら言った。
「うちのコーチングで髪型、服装なんかは多少垢抜けてるかなってくらいですが、すごい人気だったんです。女性がぜんぶ宗一郎さんに希望を書いてました。なんでだと思います?」
今度は織江が考えこむ。
「仕事、独立されたんだそうですよ」
織江はあの宗一郎が起業するとは思えなかった。
「で、彼、誰かと交際することになったの?」
手元の書類に目を通しているふりをして、さりげなく訊いてみた。
「いいえ。二〇代後半の女性からもオファーがあったのに、誰とも付き合わなかったそうです。もしかして、まだリーダーのことが……」
「ばかな! じゃなんで何回も見合いするのよ。でも、ちょっと気になることがあるんで、今度、会場に顔だすわ。次も出席するのかな?」
スタッフはそうだと頷いて部屋をでていった。
週末、お見合いパーティー会場のバックヤードに陣取り、宗一郎の訪れを待つ。スタッフから『来ました』とメッセージが入った。椅子から立ち上がる時、織江は自分に、宗一郎をこの目で確かめるのは、『順調にいっているビジネスの障害にならないかの確認である』のだと自らに言い聞かせた。
フロアに立つ宗一郎を見つけたのは、会場を何周も見回したあとだった。しばらく観察してみた。以前なら、人と話すときは、腰がひけた消極さをみせていたが、姿勢よく立ち、無駄な動きはみせない。さらに宗一郎の方がまわりへの目配りができていて、人より一歩先んじて動いている。
「彼、変わりましたよね」
スタッフが傍にきて耳打ちする。
「確かに変わった」
別人のようになったのではない。宗一郎を形成していたもののうち、ネガティブなものだけ消えてなくなっている気がした。
「仕事を辞めて起業しただけでこんなに変わるかしら。絶対誰かの影響を受けているはずよ。恋人がいないなんて嘘じゃないかな」
スタッフの方を見た。彼女は困ったように首を振って、
「リーダーがそう感じておられるなら、昔なじみだし……」
投げられた言葉を何も触らずに、こちらへ返した。
パーティがお開きになると参加者にアンケート用紙が配られる。そこには印象に残った人がいれば記入する欄もある。織江はその中から宗一郎の名前を探し出した。回答欄には何も書かれていなかった。
「こんにちは」
バックヤードのドアが開いていたらしく、そこから宗一郎が顔を出していた。
「こんにちは」
織江はアンケート用紙の束を集めて机でトントンと打ってそろえた。
「宗一郎さん、会社が変わったの? 独立されたとか」
席に座ったまま訊ねた。
「そう。前にいた会社は、僕を便利屋のようにあちこちに転勤させまくって、成果をあげても、手柄は上司にもっていかれるばかりだったからね」
口ごもることなく返事をした。
「変わったね。もちろん、いい方に」
誰かここに来てこの空気を壊してほしいと願った。けれどドアの前に宗一郎がいるため、スタッフは気を利かせたつもりで近寄ってこなかった。
「じゃ、これで」
宗一郎が帰ろうとした。
「あ、待って」
織江は立ちあがった。
「アンケートに何も記入がないのだけど、どうしてかしら。スタッフからは、宗一郎さんにオファーがたくさん来ているって聞いてるけど、それが気になって」
宗一郎はそれには答えず、
「織江さんはお見合いパーティーの仕事はしなくなったの?」と質問した。含みのある言い方が引っかかったがそれ以上訊かなかった。
二年目になり織江は幹部として羽須美代表の次の役職になった。それを機に一緒に住んでいた家族と離れてマンションに移った。そんな矢先、織江が出勤すると、フロアに見慣れない背広姿の男たちが大勢いた。誰かから家宅捜索という言葉が聞こえた。何があったのか、近くにいたスタッフに訊いていると。そのやり取りに気づいた男のひとりが織江のもとにやってきた。
「ここの人?」
事務的ながら目は疑り深そうに織江をみた。
頷くと、
「昨夜、お宅の社員とここの会員の男性とのトラブルがありまして、ちょっとお話を聞かせてほしいのですが」
背広の男は警察のものだと名乗った。
織江の氏名、年齢、住所を手帳に聞き書きしていった。そのとき、奥の部屋の扉が開き、羽須美代表が背広の男ふたりと共に血の気の引いた顔をしてフロアにでてきた。
羽須美代表は織江と目が合うと、訴えるようにじっとみた。何か話かけてくるものと待ち構えたが、そのまま行ってしまった。背広の男のひとりは、顧問弁護士だった。
彼らが去っていくと、織江の前の男が質問を続けた。
「この会員FさんとスタッフIさんが個人的な関係だったことを把握されてましたか?」
スタッフのひとりとサロンの会員の男性の名前を出して訊いた。
「個人的な関係? いえ知りません」
仕事上の関係以外、知らないのは事実だった。
「何があったんですか?」
織江が訊いた。
「あなたはたしか幹部職ですよね。あなたも『サロン』で接客の仕事をされてたんですよね」
質問するのはこっちとばかりに無視をしたうえで、質問を重ねてくる。織江は接客という言葉にいやな響きを感じた。
「とにかく、わたしは何も知りません。わたしの仕事はお見合いパ―ティーの運営を担当することですから、会員様の個人的な情報は何も把握してません」
警察の男は質問をやめた。また聞きたいことがあるかもしれないので協力するようにと威圧的に言って離れて行った。
織江は自分の執務室に飛び込んだ。椅子に座ると足が震えているのが分かった。なにか分かるかもしれないと、パソコンを立ち上げメールをチェックしてみた。そこには会員からの個人メールが何通か入っていた。開いてみると、すべて脱会手続きの申請だった。会員名簿から警察が電話をしていることが原因であった。
ドアがノックされた。宗一郎のことを教えてくれたスタッフだった。
「リーダー、会員さんが自殺……、無理心中しようとして、うちのスタッフは……、命は助かったんですけど、あの、それで……」
興奮していて順序だてて話ができないようだ。織江はまず彼女を椅子に座らせた。
「誰から聞いたの?」
「本人です。いま電話がきました。彼女は病院で手当て受けてるんですが……」
「Fさんは?」
「お亡くなりになりました……。彼女にずっと入れあげてて。普通のサラリーマンなのにお金まわりがよくて、もしかしたら、横領してるんじゃないかって噂してたんです。で、それでやっぱり横領がバレて会社を懲戒解雇になって、家族にわかるのも時間の問題だったようで」
『サロン』に来る会員の多くは、ひとり者か定年退職をした男たちでお金を自由に使える人が多い。だが少数だが現役の人もいた。
「彼女は大丈夫なの? それにしてもどうしてこんなにみんなが知ってるの?」
「Fさんが心中予告と遺書をSNSに書き込んでいたからみたいです。本名ではないですが、読む人が読めばすぐに分かるって。いま、向こうでみんな読んでショック受けてます。それと、彼女も大丈夫じゃないみたいです。一緒に逃げて欲しいと頼まれて、断ったら、顔、剃刀で切られたって言ってました。命に別条はないんですが……。それで、わたし彼女のところに行っていいですか?」
その言葉に織江も現実に引き戻された。羽須美代表はおそらく警察に連れていかれたのだろう。今日は通常の営業をするのは無理だと判断した。
「構わないけど、まず、予約のキャンセルをするようにみんなに言って。それから、わたしのところに会員の退会申請が来てるのだけど、『サロン』は代表の指示があるまで休会にします。ところで、あなたのところにも会員から連絡きたの?」
織江の歩き回るヒールの音が静かな部屋に反響している。
「来ました。それが宗一郎さんから来てたんです」
織江は足を止めスタッフを振り返った。
「宗一郎さん? 『サロン』に来てたの? あなたたち付き合ってるの?」
ぶるぶると頭を振り、
「そうじゃないんです。コミニュケーションの取り方の練習してました。それをお見合いパーティーで実践してみて、うまくいったとかいかなかったとか」
宗一郎は脱会するのではなく、心配してメールをくれたと言った。
長い一日を終えマンションに帰ってきた。自動ドアを抜け、オートロックのドアを暗証番号で開錠してエントランスを通りエレベータ―ホールに立つ。このエレベーターを待つわずかな時間が織江に優越感を感じさせてくれるのだ。
気に入りのフレグランスの匂いがドアを開けた瞬間に漂う。白いカーペットが足の裏を優しく受け止めながらリビングまで続く。織江は地上二六階、家賃三十万円のここの生活が自分のすべてだと感じている。ここは自分に沁みついた卑屈さ脆さから抜け出せた象徴なのだ。あのとき羽須美を訪ねるという行動を起こしていなければ、いまも誰かに寄りすがってしか生きられない、惨めで弱い女のままだったと思う。母親たちには中古の一軒屋を買ってやったことも自信となった。あの家はゆくゆく息子のものになるだろう。祖母はそこで亡くなった。ろくでもない人生だったと思うが、せめてもの報いは、新品のベッドで眠るような顔で逝ってくれたことではないか。
ダイニングテーブルの椅子に腰かけ、サイドボードの引出から取り出した預金通帳を開いてみた。家を買ってなお、いままでにない残高が印字されている。これらは『サロン』で得たお金だ。自分の時間を切り売りして対価を得た。二〇畳あまりあるリビングには昇格や誕生日のたびに増えるプリザーブドフラワーが壁に沿って飾ってある。目を転じると、バルコニーに面したガラスサッシの向こうに夜景がみえる。しばらくすると目が慣れて、部屋の内側がガラスに移り込んでいるのがみえてくる。ガラスの中の自分と向かい合った。
なぜスタッフのIは襲われて怪我をしなくてはならなかったのか。彼女はこの仕事で何を実現したいのか明確に持っている子だった。織江はIのことで報告を受けた事例を思い出した。あのとき思ったのは、Iのやり方はホステスがホステスの客を奪うやり方そっくりだということだった。そんなことをしているといつか問題を起こすというのが現実になった。
明日いちばんで羽須美代表と話して経営方針を転換しなければ、この団体の存続があぶないと進言しようと決め、通帳を閉じた。
執務室のパソコンでメールをみると、さらに脱会申請がきている。『サロン』は事実上閉鎖せざるを得ないと思った。早く今後の相談をしたかったが、いつもは来ている時間になっても羽須美代表は姿をみせない。電話やメールをしても返ってこなかった。
羽須美代表が失踪したとわかったのは夕方になってからだった。織江はなぜ代表が逃げたのか分からなかった。それを教えてくれたのは、昨日、警察に付き添った弁護士であった。「警察は客に売春斡旋をしていたとして、羽須美代表をさらに追及するつもりだった。もし他の会員からなにか証拠がでてきたら、国税も興味を持つと思う。早く解散することを勧める」と言われた。
「わたしたちは売春婦じゃないですよ」
織江は弁護士に抗議した。
「相手が売春したと言ったなら、その相手は売春婦になるんだよ。いくら本人が否定してもお金が介在して、その場限りの性交渉をした者を世間は売春婦という」
この言い分に言い返す言葉がなかった。なぜなら、会員はその可能性のために織江にお金をつぎ込んでいたからだ。
「ここの後始末はどうしたらいいんですか?」
金の管理はすべて羽須美代表がしていた。
「それはわたしがするから君たちは、私物を持って出ていくだけでいい」
そう言われて、初めて羽須美代表を逃がしたのはこの弁護士だったのだと分かった。代表の部屋に金庫がある。そこから少なくない報酬を受け取ったのだろう。
織江はスタッフたちを集めて今後のことを話し合った。キャリアの長いスタッフは『サロン』は封印してコーチングのセミナーだけでも続けたいと言った。だが、それには羽須美のような、人心掌握にたけたトップが必要だ。
「残ったわたしたちにできるのは、お見合いパーティーの企画くらいだと思う」
織江はコーチングのセミナーは無理だと発言した。
「解散して、それぞれ何かしらの仕事に就くしかないのでは」
別のスタッフが言った。
織江のそばに宗一郎と親しくなったスタッフが来た。
「リーダーは宗一郎さんがいるじゃないですか? 連絡取ったらどうですか?」
肘でつつく真似をした。
「冗談でも不愉快よ」
織江はきつい口調で一喝した。
「みなさん、今後のことはここで言っていても始まらないでしょう。わたしも正直、自分のことで精一杯です。一緒にやりたい人たち同士でこれからのことは決めて、一旦解散しましょう。もちろん、連絡は取り合っていきましょう。それから私物を整理して何も残さないで持ち帰ってください」
もう二度と一緒に働くことはないだろうと思いつつ、そう言った。泣き出すスタッフがひとり、ふたりでてきた。
織江は仕事のヒントがないかとネットの中を検索して過ごす日々を送っている。
朝起きて、バスタブにお湯をはり、ハーブソルトと炭酸をメジャーに計って入れる。天窓のついたこのバスルームが何より好きだった。お湯に身を浸し、目を瞑る。ここのシステムバスルームはシティホテルのような仕様になっている。バスルームだけでなく、キッチンもダイニングもベッドルームも、この中にいれば織江は護られている気持ちになるのだ。
絶対この生活は手放さない。
織江はここしかないのだと繰り返し思う。
バスタブの壁に取り付けられた小型テレビがモーニングショーを映し出している。そこには入居料一億円の老人ホームというのを特集していた。敷地の中にはパターゴルフ施設や温水プールに天然温泉の大浴場もあるという。織江は画面に映し出される施設の中で白いポロシャツと紺色のキュロット姿の若い女の子たちに目を留めた。スタッフであろう彼女たちは介護ヘルパーのイメージはなかった。こんな所なら自分も働いてみたいと思う。
頭にバスタオルを巻いたバスローブ姿でパソコンを開く。検索ワードは一億円、有料老人ホームと打った。さっきの老人ホームがトップにでてきた。そのとき、携帯が鳴った。ディスプレイに町子の名前が出ている。ためらったが出ることにした。町子は今日会いたいと言ってきた。あの喫茶店でと言って手短に電話を切った。
この店に来るのは久しぶりだった。前に町子に批判されて以来か、などと思いながら店に入った。町子がさきに来ていた。
「久しぶり」
町子は微笑んでみせた。
「久しぶり」
織江も同じ言葉を返した。町子はいつ会っても変わらない。服の趣味も髪型も表情も。それに学生時代にであった今の夫とふたりの子ども。ミスのない人生を送れる人もいるのだといつも思う。
「いろいろ耳に入ってきて、心配で仕方がなかったの。ウチの人にそれをずっと言ってたら、そんな心配なら会って確かめろって言われちゃって」
ローカルの新聞に載ったので知ったのだろう。
「いろいろとね。どんな噂をきいた」
「婚活詐欺とか……。それでわたし調べたのよ。団体の代表の女のことを。そしたらうちの親戚のおばさんがよく知ってたの」
「どういう?」
「あの女はね、口寄せって東北の、死んだ人の霊を降ろして話をするっていう。ずいぶん前におばさんがよく当たるってきいて彼女のところに行ったことあるって。もう三〇年前かな。霊感占いみたいなもので人生相談もやっていたらしいの。それが人気で人が集まったので小さな新興宗教の教団を作ったんだって。教団の利益をあげるため、ある信者が盗品を持ち込んでそこに来る人に売ってた。もちろん羽須美も暗黙の了解をしていたところが、盗みを働いていた信者が捕まり、教団の代表の彼女も逮捕されたんだって。それ以来姿を消していたらしいの。この前の新聞で名前を見て、この女だって、なったの」
霊感があると言っていたが、そんな過去があるとは知らなかった。羽須美には出会ったときから本物と紛い物の入り混じった印象があった。あのプリザーブドフラワーのように。
町子がぬっと顔を近づけてきた。
「今日ここに来てもらったのは宗一郎さんと会わすためなの」
町子が入口を見ているので、振り向くとそこに宗一郎がいた。
織江は溜息をついた。
「そんな顔しないで。わたしはこれで帰るね」
織江の肩をポンと軽く叩いて、町子は席を立った。きっと自分はよい事をしたと思っているのだろう。
入れ替わりに宗一郎が前に座った。
「久しぶりです。いろいろ大変でしたね」
宗一郎は織江を労わるような口調で言った。席に座ると注文をとりにきたウェイトレスにコーヒーをお願いしますと言った。
紺のジャケットにブルーのシャツ、ベージュのコットンパンツという服装にさらに垢抜けた印象を受けた。そうやってまだぼんやりと宗一郎を見ていた織江に向かって、
「何かお困りのことはありませんか。もしよかったらお力にならせてください」
織江は、えっ、と思わず声がでてしまうくらい意表を突かれた。誠意のこもった話し方や表情からは悪意は感じられない。
「何をおっしゃるのですか。わたしにはそんな資格ありません。」
少し会話をして、宗一郎が何を考えているのか探ってみようと思った。
「そうですか……」
そう言ってから、宗一郎は口を一文字に引き結び下を向いて次の言葉を探しているようだった。
ウェイトレスがコーヒーを運んできてテーブルに置いた。宗一郎はコーヒーカップを持ち、ひと口飲んだ。
「多羅尾から帰ってしばらく君の行方を探していた。居場所が分かって、お見合いパーティーが出している会報で君の写真を見て本当にびっくりしました。そこにいたのは、一皮もふた皮もむけた垢抜けた美しい君だった」
織江は思わず頬が緩んだ。
「僕は確かめたかったんだと思う。写真が本当なのか」
宗一郎は真顔になった。
「お見合いパーティーの会場で君を見て、写真のとおりだと思った。どうすれが変われるのか。僕は知りたいと思いました。それで会員になったのだけど、君はすぐにお見合いパーティーの会場には姿をみせなくなった」
織江は黙って頷いた。
「それで羽須美のり子のコーチングを受講した。お見合いパーティーのスタッフに君は羽須美のり子を信望しているし、彼女も右腕として頼りにしていると聞いたから。正直、僕は羽須美のり子の言うことに心を動かされることはなかった」
織江は軽く相槌を打った。羽須美のり子のことに同意したのではなく、話の続きを聞くためだった。
「君はとても人気があって、つまり『サロン』での営業活動をしなくていいくらい、会員から指名があったんだよね。とにかく、僕は『サロン』に行くようになってよかったと思ってる」
「どうして?」
「あそこに来る男は僕と正反対の人ばかりだ。中には僕みたいに迷いこんでくる奴もいたけど、場違いに気づいてすぐいなくなる」
「じゃあなんで『サロン』に通い続けたの?」
宗一郎はくすっと笑った。
「なんで笑ったの?」
織江が怪訝な顔をすると、
「やっぱり君は変わってないなあ。答えをすぐに出そうとする。迷いがないというのか、真っ直ぐなんだ」
「じゃ宗一郎さんは?」
「そうだね。すぐに答えが出るものに興味はないかな……」
織江はそろそろ終わりにしようと店内をみまわした。
「僕が独立したのは『サロン』がきっかけだった」
織江は浮きかけた腰をおろした。
「『サロン』では男たちが仕事の情報交換もしていた。僕は『サロン』に来る男たちのようにお見合いパーティーで男を相手に仕事の話をした。気づいたら僕のまわりに女性が集まってきて熱心に話を聞いていた」
「わたしが見に行ったときも、宗一郎さんが輪の中心にいたわね。そういうことだったのか」
「『サロン』に同じ業界の男がいたので、その人にこういう物があったらいいと思いませんか? と訊いた。すると、その人は目の色が変わった」
「その人にそれを売ったのが独立のきっかけ?」
織江が訊くと、宗一郎はかぶりを振った。
「確認したかっただけだった」
宗一郎はそう言うと織江の目を真っ直ぐに見た。
「織江さんに言っておきたいことがある」
織江はびくりとした。
「織江さんは、町子さんが僕と織江さんをひっつけたがって、三浦に全部話したことを怒っていたよね」
織江は頷いた。
「町子さんの本心は僕とひっつけることじゃなくて三浦から離すことだと思う。元夫がDVだったのは聞いてた。DVの人は自分より弱い者に暴力をふるうよね。君と三浦の関係はそうなると町子さんが心配してました」
織江は首を横に振った。
「自分に引きつけておいて、その人を突き放すことがエネルギーになる人もいるんだと思います。たぶん怒りなんでしょう」
宗一郎は水をひと口飲んだ。
「あの時、君は三浦に突き飛ばされて転んだ。僕はそれを離れたところでみてた。君は泣いていたし、三浦は怒っていた。状況はちゃんと見てた」
織江は掌を上にしてテーブルに載せた。あの時砂利を叩き続けて切ったところが盛りあがって傷跡になっていた。
「でも、僕は君が三浦を選んだということしか見えてなかったんだ」
織江は掌を擦りあわせ、突起した傷跡をなぞった。
「あのとき宗一郎さんがわたしを庇ってくれたら、もっとみじめになっていた気がする」
「ほんとに! 僕はとことんイケてない男だったって訳か」
宗一郎は額に手をあてて笑った。
「わたしには人の気持ちを受け取る情のようなものが欠如しているのかも」
「そんな寂しいことを。まるで、あの乾いた花みたいだ」
「ほんとうだ。でもわたし、あの花のこと好きだけどね」
宗一郎は腕時計をみた。
「大阪の姉に君との顛末を話したとき、姉は相手はお金を貢いでもらっていると思ってるだけだ。結婚の約束をするわけでも関係が深まるわけでもない。それを分からない方が馬鹿だと言われた。そのあとに、もし自分が彼女の友だちなら、そんな思い込みの強い男、殺されるよと言ってると言われたんだ……。だから『サロン』の事件を知ってちょっと動揺したよ。僕があのまま君に応えてもらえると思い込んでお金を渡し続けていたら取り返しのつかないことをしてただろうって。現に僕が多羅尾で殴ろうとしていたのは三浦じゃなくて君の方だったから」
織江が黙っていると、宗一郎は席を立ち、ありがとうと言って去っていった。
ここは昔、長者長屋と呼ばれた地区だ。四角に切りとられた石垣は丸石を積み上げた石垣よりも位の高い家だと聞いたことがある。織江が派遣された訪問介護先の家は、四角い石垣の大きな家で重要な来客が来る夜は門のところに松明を灯す風習が残っているような格式だった。介護ヘルパーの初任給は十八万円位だったが、ここに派遣されて三カ月目に会社の報酬の倍を別途出すのでと、この老人に対して医療行為以外のすべての世話をする契約をした。
織江はゆるくウエーブした髪をひとつに結わえ、白いブラウスに紺色のひざ下丈のギャザスカートを着てきた。仕事をするときは白いサロンエプロンをつける。
リクライニングチェアに座った八〇過ぎの老人の部屋の掃除、着替え、入浴を担当する。掃除機をかけながら、老人の方を見る。老人は織江の尻のあたりをじっとみていた。
織江は掃除機を持ったまま振り返り、老人に笑顔を送った。