雨は上がっているけれど、水分を含んだ重い空気が身体にまとわりつくような気がする。じっとしていても、額や首筋にじわじわと汗が噴き出てくる。は、首の後ろに手をまわして、無造作に髪を一つにくくった。後れ毛が何本か、首筋にべたりとはりついている。
「用意ができたら、うつぶせになってタオルをかけてくださいね」
なじみの鍼灸師が声をかけてくる。はい、と小さく返事をして、タンクトップを脱いで姿見の前に立った。佳乃はブラジャーをはずし、鏡の中の自分を見た。四十がらみの痩せぎすの女性がそこに映っている。決して大きくない胸は以前の張りを失い、重力に素直に従っている。黒いレギンス一枚だけを身につけた姿は、お笑い芸人のようで、とても滑稽な感じがする。
マッサージベッドにあがり、うつぶせになって、「用意ができました」と声をかけた。仕切りのカーテンを開けて、鍼灸師が入ってくる。佳乃と同じ年だという鍼灸師の男は、開いているのかどうかよくわからないような目をしている。全盲ではなく弱視であり、時々パソコンの画面にくっつくかと思うほど、顔を近づけて覗き込んでいる。
「今日はどうしましたか」
鍼灸師が尋ねる。
「首が痛いんです。それとよく眠れなくて」
わかりましたと言って、鍼灸師は鍼を刺していく。レギンスの裾をめくって足首に、それから腰、背中、首。肌に何かが触れる感触はあるが、痛みはない。糸のように細い鍼を使っているとはいえ、なぜこんなものが肌に刺さっているのに、痛みがないのか不思議に思う。発泡スチロールに縫い針を刺していくような感覚なのだろうか。すっすっとひっかかることなく吸い込まれるように入っていく。
時々、ちくりとする痛みがある。告げると、何事もないように、その部分の鍼を抜いてくれる。一筋、細く血が流れていることがある。
「昔はね、わざと皮膚を切って、悪い血を出していたんですよ。カミソリで肩のあたりを自分で傷つけるんですよ」
悪い血ってどんな血なのだろうかと、佳乃は考える。黒っぽくてドロドロしていて、ナイフで皮膚を傷つける痛みを我慢しても、体内から出してしまわないといけないもの。普段はそれが体内を巡っていて、出口を見つけたとたんに、ドロリと流れ出すところを佳乃は想像した。
「次は仰向けになってください」
鍼灸師がカーテンの向こう側に消え、佳乃はベッドの上で仰向けになり、むき出しの胸にバスタオルをかけた。何度も洗濯を繰り返しているのだろう、ゴワゴワとした感触が肌にあたる。天井には無機質な蛍光灯が白い光を放っていて、部屋の中をますます無愛想にしている。柔らかい光の照明にして、ゆるいBGMを流し、見栄えの良い鍼灸師だったら、腕はいいが閑古鳥が鳴いているこの鍼灸院は、もっと繁盛するかもしれないのにと、佳乃は余計なことを考える。
「それでは、自律神経を整える鍼をしていきますね」
佳乃の心の内を知ることもなく、腕、デコルテ、そして顔と、躊躇せずに鍼灸師は鍼を打っていく。髪の生え際、眉の周囲、もし天井から誰かが自分の今の姿を見ていたら、悲鳴を上げるにちがいない。より細い鍼を使っているようで、まったく痛みは感じない。
「これで、よく眠れるようになると思いますよ」
窓の向こうから、先ほどまで雲に隠されていた満月が、白い光をはなっている。
目を閉じて、鍼灸師の低くてゆるりとした声を聞きながら、佳乃はこのまま夢の中へ落ちていくように感じた。
「佳乃ちゃん、おかえり」
家に帰ると、姪のみどりが声をかけてきた。
「ごはん、作っておいたよ。お味噌汁、鍋に入ってる」
高校生なのに、みどりの料理の腕はかなりのものだ。焼き魚にタコと胡瓜の酢の物、揚げ出し豆腐といった佳乃の好きな和食がテーブルの上に並んでいる。みどりと一緒に暮らし始めて、もう二年近くになる。みどりは叔母である佳乃のことを、「佳乃ちゃん」と、まるで小さい子どものように呼ぶ。
「佳乃ちゃん、昨日も夜中に起きてたね。眠れないの」
「うーん、眠れるけど、いつも二時ごろ目が覚めて、そこからなかなか眠れないのよ」
佳乃は、わかめと豆腐の味噌汁を口に運びながら答えた。
「でもさ、しっかり寝ないと、健康と美容に悪いよ。佳乃ちゃん、まだまだこれからだよ。恋もしなきゃだよ」
ふふふと目の端で笑って、佳乃は箸をおき、みどりを見つめた。
「姉さんと違って、私はもてないもの。恋なんて奇跡、私には起こらないよ。これまでも、これからもずっとね」
みどりは、少し目を見開いた。
「そんなこと言って、佳乃ちゃん結婚してたでしょ」
佳乃は、何年も前に別れた夫を思い出す。毎日お前は馬鹿だとののしられ続けた日々も一緒に脳裏を横切る。
「恋しなくても、結婚はできるの」
そうなのかな、とみどりはつぶやき、箸で豆腐をくずしていく。
みどりの母である佳乃の姉は、二年前、まだ中学生のみどりを置いて、男と出て行った。
「お母さんと佳乃ちゃんって、全然似てない姉妹だね」
佳乃は唇の端を上げて笑おうとしたが、それは失敗に終わった。
みどりは家にいるときは、ご飯とお風呂の時間以外は、ほとんど勉強している。どうしてそんなに勉強しているのか、佳乃はみどりに聞いたことがある。将来のために今は我慢して頑張っているのかという佳乃の問いにみどりは好きだから、と答えた。
「だって、楽しいでしょ。自分の中にどんどん知識が増えて、どんどん自分が強い人間になっていく気がするし。誰からも何も言われないようにするためには、絶対的な力が必要でしょ。私は、自立するために勉強していて、それを苦痛に思ったことなんてないよ」
みどりはぶれていなくて、何かを我慢して、先のために今を犠牲にしてる風でもなく、ほんとうに素直にそう答えた。それは、きっと正しいことだと思うし、自分が今まで持てなかった力を、この可愛い姪には身につけてほしいと思う。
「佳乃ちゃん、まだこれから何にでもなれるよ。佳乃ちゃんの人生、まだ平均寿命の半分以下だよ」
みどりはそう言うけれど、求人も四十歳で切られるところがほとんどだし、特別に資格もなく、人とうまくやっていくことがずっと苦手だった自分が、この先何にでもなれるなんて、うまく想像できない。派遣であちこちの職場に行ったけれど、話ができる人が一人でもいれば、それで十分だった。たいていのところでは、皆が楽しく話していても、自分はその輪に入れずに、うつむいて黙々と仕事をしていた。特に嫌がらせをされるというわけではないけれど、いつも皆との間には見えない壁があり、てっぺんまでよじ登って乗り越えられるかなと思っても、それは錯覚で、そのてっぺんだと思ったところから、知らないうちにまた壁が上に伸びている。
佳乃は仕事に遅刻していったことがない。始業の一時間前には職場に着いて、細々と用意をしている。部屋に入ると、いつも課長の山崎さんが先に来ていて、前の席で新聞を読んでいる。そして、佳乃の姿を見ると、ちょっと低い声で「おはよう」とあいさつをしてくれる。そのあと、取り立てて何か話すことはない。まだ皆がきてざわつく前の静かな職場で、朝の柔らかい光の中で、コーヒーメーカーが立てる音を聞いているこの時間は、一日のうちで一番好きな時間かもしれない。時々、山崎さんが気まぐれに声をかけてくれることがあり、たとえそれが単なる業務連絡でも天気の話でも、佳乃は嬉しい気持ちになる。それは、相手が山崎さんだからなのか、それとも単に誰かに声をかけられることが嬉しいのか、そこがまだ佳乃にはよくわからない。
でも、山崎さんのことは好きだと思う。佳乃より少し年上だけれど、笑うと目じりに皺が寄って、そのくせ童顔に見える。好きなところは、誰に対しても公平なところ、そして、佳乃が昔好きだった人に似ているところ。
佳乃は小さいときにシェルターにいたことがある。それは、核兵器から身を守るためのものではなくて、父親の暴力という爆弾から身を守るための場所。母と兄弟たちと、パトカーに送られて逃げてきた。2Kの部屋で母と兄弟四人で暮らしていた。押し入れからたくさん衣類がはみ出して、食べかけのおやつやノートやおもちゃが、部屋中に散乱していた。姉一人と弟二人がいて、母が留守の時は、姉ではなくて佳乃が弟たちの面倒を見ていた。シェルターの入り口は、まるでそこだけ高級マンションのように厳重に施錠されていて、職員が常駐していた。中に入ると、廊下をはさんでたくさんのドアが並んでいて、その中がそれぞれの家庭の母子の住居であった。なぜだか子沢山の家庭が多くて、十歳までは、職員さんが勉強室で宿題を見てくれた。友だちもいたし、遠足やバザーのイベントもあって、楽しいこともたくさんあった。シェルターから偽名で学校に通っていて、毎日忘れ物ばかりしていても、学校ではそんなに先生に怒られなかった。水着を忘れて、いつも暑いプールサイドで見学しないといけなかったのは、少し悲しかったけれど。
時々佳乃は職員さんに注意された。本当に無意識に佳乃は、パンツの上から自分の股を触って指を動かしていた。それは、勉強室で宿題を始めるまえであったり、映画会でアニメを見ているときであったりした。その職員さんは、若い女の人だったけれど、とても髪を短くしていて、低い声でしゃべっていて、一見男の人に見えた。その人は、佳乃に言ってくれた。
人前でしてはいけないよ。でも、それはけっして悪いことじゃないよ。自分の身体が、どうすれば気持ち良くなるか、どうすれば自分が喜ぶか、それを知ることはとても大切なことだからね。
その職員さんの名前はもう忘れてしまったけれど、笑った時の感じとか、全体の雰囲気が山崎さんとよく似ていた。その人と山崎さんは性別も違うのに、なぜ重ねてしまうのかなと、佳乃は思う。共通点は何なのだろうか。柔らかい感じがするのに、自分の中にしっかりと基準があって、何が起こってもぶれないところ、そしてそれが、決して押し付けがましくないところだろうか。
「宮部さん、どうしたの。朝から難しい顔をして」
朝の、まだ柔らかい光の中で、山崎さんが少し微笑んで、佳乃に向かって聞いた。やっぱり好きな笑顔だなと思う。
「昨日の苦情処理でずいぶん遅くまで無理をさせたから、疲れが残ってるんじゃないのかな」
あ、いえ、昨夜は、と佳乃が言いかけた時、おはようございますと若い女性社員が部屋に入ってきたので、山崎さんは佳乃の返事を聞くことなく、その女性社員に笑顔を向け、たわいのない話を始めた。
こんな時、ふと、誰かの特別な人になりたいなと思う。自分のことを一番気にかけてくれて、自分に最高の笑顔を向けてくれる人。でも、そんなことが自分に起こることはないだろうなと思う。空気が読めず、会話の流れに乗れず、いつもうつむきがちで少しオドオドしていて、そんな自分を悟られないために、ことさら無愛想になる。この年になっても知らない場所や知らない人は怖く感じる。その他大勢の中に埋もれているのが心地いいのだけれど、その他大勢なんて人はいなくて、皆それぞれの人生ではそれぞれが主人公で、自分もそうかもしれないけれど、自分は誰かの人生では、通行人にさえなれないぐらい、影が薄いような気がする。そんなことを考えていると、時々心臓を素手でグッと鷲掴みされたように感じることがある。そういう時は、ぞわぞわとした不安で落ち着かない気持ちになる。楽しいことが一切思い出せなくなりそうで、まず身体を心地よくしようと、ヨガや鍼に通っている。
その日は朝からお腹が痛かった。職場を出る前にトイレに行くと、どろりとした赤黒い血液が下着を汚していた。三か月ほど生理が来ずに、初潮から今までこんなことは初めてで、激務の毎日でよっぽどストレスがかかっているのか、もしかしたら早めの閉経なのかと思っていたところだった。黒い血液が出口を見つけられずに体内をグルグルと巡っているところを佳乃は想像する。早く血を出してしまわないといけないのに、その術を持っていない。処置をしてビルから出るときに、ちょうど山崎さんと一緒になった。
「あ、お疲れさまでした」
佳乃は、ぼそっと挨拶をする。嬉しいときは気持ちを悟られないように、ことさら無愛想になってしまう。
「宮部さん、今日も遅いんだね」
「仕事が終わらなくて」
緊張してすぐに顔を上げられないから、佳乃は頭の中で自分に命じる。顔を上げて目を見なさい、と。相手が山崎さんに限らず、佳乃は人と話すときに、自分を叱咤して相手の顔を見る。
「今夜は満月だね」
そんな佳乃の心のうちはまったく知ることもなく、山崎さんは空を見てぽつりとつぶやいた。
「ねえ、宮部さん、夏目漱石の月の話、知ってる?」
「アイラブユーを、月がきれいですねと翻訳する話ですか」
「そうそう」
山崎さんは、微笑んだ。この人は、本当に子どものように笑うんだなと思う。その笑顔には邪気がまったくなくて、責任が重い立場にいて、今期はトラブル処理で大変なはずなのに、自分の中でいろいろな想いを消化してきたのだろうなと思う。
「宮部さんはどんな人が好きなの?」
山崎さんは、罪のない顔で微笑んで言う。
「自分の中にしっかりと基準があって、何が起こっても、ぶれない人かな」
佳乃の返事に、山崎さんは、軽くうなずく。
「周りの状況や意見に流されない強さがある人って、それは本当の力があるからだと思うんです。自分が人の顔色窺って、それはなんだろ、成育歴から来るかもしれないし、わからないけど、自信がないんです。二十年仕事していても、自信がない。誰かが認めてくれないと、ほんの一瞬で、ちりのように吹き飛んでしまう。そうなったら、いつもビクビクとおびえていなければいけない。まるで小さな子供のようにね。たぶんいつも認めて欲しいと思っているし、誰かに見ていてほしいんです」
佳乃は、山崎さんの目をしっかり見つめて一息に言った。
「そかそか」
山崎さんは、微笑みながら、鞄を下げていない方の手で、佳乃の髪の毛をくしゃくしゃとなでて、じゃあねと言って雑踏に紛れて行った。
青白い月の光が、まるでスポットライトのように舞台に残された佳乃を照らしていた。
舞台の上にいる自分は、いつもの自分ではなく、女優のように美しかったと思う。きっとそうだと思う。そして、佳乃は時々、その場面を頭の中から取り出して、いつまでも小さくならない飴をなめ続けているように、舌の上で転がして甘さを味わう。そんな瞬間が、きっと今までも何ピースかあって、ジグソーパズルのように組み合わせていけば、新しい自分という形ができるのかもしれない。そのためには、まだまだピースが足りないような気がするのだけれど。
その後、山崎さんはいつもと全く変わらなかった。何の躊躇もなく話しかけてきて、でも、決して特別というわけではなく、皆に平等で、誰に対しても丁寧に接している。頭を撫でてくれた時に、少し髪に引っかかった山崎さんの左手薬指の指輪は、そこにあるのが当たり前のように、いつもの定位置から動くことはない。佳乃は、特別にがっかりすることもなく、でもやはり寂しい気持ちは少しあって、それはいつもベッドにおいている熊のぬいぐるみを抱きしめても全然解消されなくて、いい年をしてぬいぐるみに癒されている自分もなさけなくて、いろいろな想いが自分の中を行ったり来たりし、また必死で頭の中でジグソーパズルを組み立て始める。一緒に見た月の青白い光を思い出して、でも、それは途中から、山崎さんの指輪の光に変わっていて、佳乃はそのピースを破棄しようとするのだが、やはり捨てられずにそっとしまっておく。悲しいことは世の中にはあふれかえっていて、それは見ようとしなかったら目に入らないのかもしれない。でも目の前に突き付けられたら、たとえ目をつぶったとしても見えなくならないし、なくなるわけじゃない。
ある晩、家に帰るとみどりが玄関前に立って、空を見上げていた。シンと静まり返った暗闇の中で、みどりの姿を月の光が照らしている。その姿は、神々しくさえあって、一瞬佳乃は声をかけるのを躊躇したほどだ。
「ただいま、何してるの」
声をかけるまで、みどりは佳乃に気が付かなかった。
「あ、おかえり佳乃ちゃん。パワーチャージしてるんだよ」
「パワーチャージ?」
「うん、月の光には力があるんだって。特に満月はそうらしいよ」
「受験のパワー?」
みどりは、ちょっと微笑んだ。
「生きていく力かな。佳乃ちゃんもやってごらんよ」
みどりは、両手の指をからめて伸びをし、空を見上げた。
佳乃は鞄を横に置いて、みどりの真似をした。ぐいんと伸ばした身体が心地よい。背中、腕、腰と身体が全部、上にひっぱりあげられていくような感覚だ。ゆっくりと呼吸しながら、手の平に受けた月のパワーがそのまま体の中に入ってきて、足先まで満ちていくところをイメージしてみる。
その時ふと、映像が浮かんだ。自分が赤ちゃんを抱いてあやしているところ。あれ、なんだこれ、と佳乃は思う。子どもは欲しくない、自分に子どもが育てられるはずがない、ずっとそう思っていた。結婚していた時も、夫に内緒でピルを飲んでいた。
この先、もう結婚するつもりもないし、それより相手もいないし、もちろん子どもを産むつもりもなかった。
ストンと脱力して、みどりが話し出す。
「佳乃ちゃん、今日はブルームーンだよ」
「ブルー? そんなに青いかな」
「一ヶ月に二回ある満月のことを、そう言うんだって。見ると幸せになれるって言われてるみたいよ」
しあわせって、そんな漠然としたものはよくわからない。ただ、もし満月が達成なら、すべてをリセットして再スタート出来ればいいと佳乃は思う。
満月のときに生理になる女性が多いと聞いたことがある。事実かどうかはわからないが、もしそうだとすれば、生理が来る度に何かがリセットされているのかもしれない。
「佳乃ちゃん」
みどりが言った。
「ん? どうしたの」
「私、妊娠した」
え、どういうこと。佳乃は驚いて尋ねた。
子どもができたんだよ、相手の親は大反対で相手も逃げて、だから一人で産むよ。手切れ金っていうのか、お金は払ってくれるそうだから、産んでからまた受験もするよ。
みどりは、時々微笑みを浮かべながら話をした。
そうか、みどりがそうしたいなら、それでいいと思うよ。そう佳乃は言った。
月の光に導かれ、潮が満ちて子どもが生まれる。もしかしたら、出産は大きなリセットなのかもしれない。
その時、車の音が近づいてきて、一台のタクシーが止まった。車のドアが開いて山崎さんが降りてきた。
「え、どうしたんですか」
佳乃は驚いて、目を見開いた。
「宮部さん、机の上に携帯置き忘れてたから。困ってるんじゃないかと思って」
山崎さんはポケットから佳乃の携帯電話を取り出して、はいこれ、と差し出した。佳乃はしばらく受け取りもせず、ぼうっと山崎さんの持っている携帯を見ていた。
「明日もお仕事早いのに、すいません」
やっとそれだけ言って、佳乃は携帯を受け取った。指先が山崎さんの手に軽く触れた。
「いや、明日は仕事を休む予定なんだ。妻の七回忌だからね」
それじゃ車を待たしているから、と山崎さんは再びタクシーに乗り込んで去って行った。
「今日から新しい先生が来ます」
時々通っているヨガ教室で、前の先生がやめて別のインストラクターが来た。ベリーショートの銀色の髪をした無駄な贅肉のないその女性を、佳乃はどこかで見たことがあるような気がした。
「大地のパワーを取り入れて、ゆっくり呼吸をしながら、身体を伸ばしてください」
インストラクターの指示を聞きながら、佳乃はどこで会ったことがあるのか、記憶をたどっていた。
「おへその下の丹田に意識を集中してください。ゆっくり吸って、吐いて。身体の中の汚れた気を出して、綺麗な気をたくさん取り入れてください」
いったい誰だろう。すごく懐かしい感じがする。呼吸をしながら、佳乃は身体から何かが出ていくところをイメージしてみる。綺麗なものが入ってきて、体内を巡り、浄化していくところを想像する。
「自分の身体が、どうすれば気持ち良くなるか、どうすれば自分が喜ぶか、それを知ることはとても大切なことなのです」
それを聞いて、佳乃は雷に打たれたかのように、動けなくなった。ずっと身体の奥に留めていたその言葉。
レッスンが終わってから、佳乃はインストラクターに近づいた。そして、まっすぐに目を見つめる。インストラクターは、近づいてきた佳乃を見て、すぐに自然な笑顔になった。
「佳乃ちゃんでしょう、すぐにわかったわ」
佳乃が大好きだったシェルターの職員さんは、昔と少しも変わっていなかった。
「先生、お久しぶりです」
「そうね、三十年ぶりぐらいかしらね。佳乃ちゃん、あの頃とちっとも変っていないわね。とてもきれいな目をしている」
その夜は、二人でお茶を飲みながら、たくさんの思い出話をした。そして、佳乃は先生にひとつ質問をした。
「先生、私ずっと人とうまくやっていけないんです。いつも自信がないしうまく話せないし、誰からも愛されたことがない。やっぱり普通じゃない生活をしていたからかな」
先生は少し間を置いて、静かに話し始めた。
「佳乃ちゃん、伝えるためには自分から動くんだよ。あの頃、私はまだ学生で、わからないことばかりだったけれど、シェルターの子どもたちは皆かわいくて、大好きだったよ。そして、あなたのお母さんは、本当に一生懸命だった。あなたのお父さんからあなたたち子どもを守るために、お母さんは必死で逃げて、シェルターにたどりついた。そして、死ぬまで必死で働いていたのよ。結婚を申し込まれたこともあったけれど、子どもを可愛がってくれそうな人じゃないからと断っていたこともあったわ」
先生は窓の外に目をやった。静かな闇が夜を作っていた。
「ねえ、佳乃ちゃん、普通ってなんだと思う」
その日、佳乃は遅くまで残業していた。特に急ぎの仕事ではなかったが、昼間に佳乃のミスではないことで取引先と部長に怒られて、やりきれない気持ちを黙々と仕事をすることで紛らわしていた。
「宮部さん、まだやるの?」
九時をまわった頃に、山崎さんが聞いてきた。
「もう少しやって帰ります。お先に出てください」
給湯室に入って行った山崎さんは、両手にカップを一つずつ持って出てきて、一つを佳乃の机に置いた。
「砂糖なしのミルク入りだったよね」
佳乃は顔を上げて、山崎さんを見た。
「なんで、知ってるんですか」
「いつもそれで飲んでるでしょ」
カップから白い湯気が立ちのぼり、コーヒーの香りが辺りに漂った。佳乃は、スプーンをくるくる回して、カップの中をかき混ぜた。山崎さんが自分の好みを知っていてくれたことがじわりと嬉しくて、そのことに勇気をもらって佳乃は立ち上がり、自分の席に戻った山崎さんのデスクに近づき、名前を呼んだ。ほんの少し、自分にしかわからないぐらいだけれど、その声は震えていたような気がする。山崎さんは、顔を上げて正面から佳乃を見た。
「山崎さん、仕事がつらいです」
心臓がドクンドクンと音を立てた。行き場のない汚れた血が、身体の中をグルグルと回っているのを感じられるような気がした。
「なんかあった?」
「頑張っても怒られてばかりで。話ができる人もいなくて。自分が駄目なせいだとわかっているんですけど、毎日眠れなくて身体がきついです」
山崎さんはしばらく黙ってから、ゆっくりと口を開いた。
「宮部さんは、ちっとも駄目じゃないよ。黙々とやるべきことをやっているし、面倒なことも嫌がらずに引き受けてくれるし、見えないところで皆を支えているって社内での評価は高いよ」
山崎さんの意外な言葉に驚いて、佳乃はしばらくポカンとしていた。山崎さんは、口元をゆるめた。
「ただね、ちょっととっつきにくいところはあるかな。いつも鎧で武装して戦っているような感じ? 気を悪くしたらごめんね」
少しうつむき加減の佳乃を見て、山崎さんは続けて言った。
「力があるときは戦ったらいいと思うよ。でも鎧が割れることもあるでしょう。そんな時は戦場から逃げ出して、休んで力をためたらいいんだよ。頑張りすぎたら駄目だよ。ほどほどにね」
周りの風景が少しぼやけて見えだした。鋼の皮膚がパリパリと音を立てて剥がれ落ちて、そこからどす黒い血が流れ出ていくような気がした。剥がれ落ちた鋼の下から、きっと真新しいピンクの皮膚が再生されるのだろう。
帰宅すると家の奥から聞きなれない女性の声がした。佳乃が部屋に入ると、みどりと見知らぬ女性が向き合って座っていた。佳乃よりも少し年上で高価そうな身なりをしたその女性は、佳乃を見るなりまくしたてた。
「あなたね、姪御さんを説得してくださらない? どうしても子どもを産むって聞かないのよ。姪御さんのためにもならないでしょう」
佳乃は、女性とうつむいて泣いているみどりを交互に見た。女性は、みどりのつきあっていた人の母だと名乗った。
佳乃はみどりの隣に座って女性に向き合い、話し出した。
「そちらには一切ご迷惑をかけません。認知も求めないし、子どもは私どもで面倒を見ます」
女性はため息をついた。
「産むこと自体が、迷惑です。あなた方のことは調べさせて貰いました。ずいぶんと、おかわいそうな境遇だったようですわね。産まれてから何を言ってくるかわかったものじゃないし、うちの息子の人生に黒いシミをつけたくはないですから。堕胎費用は持ちますし、慰謝料も十分なことをさせていただきますわ。あなた方にとっても、その方がいいでしょう。それとも金額をつりあげるために、産むとごねていらっしゃるのかしら」
体中の血が逆流した。みどりは隣で顔を覆って泣き続けている。佳乃は低い声を出した。
「帰ってください」
「仕方ないわね。いくらならいいの」
大人なら我慢するところなのかもしれない、冷静に話すべきなのかもしれない。でも今は、戦うときだ。
「かわいそうなのはあなたのほうです。今すぐうちから出て行きなさい」
佳乃は、ソファのクッションを女性に向かって投げつけた。弁護士を呼びますからと、女性は叫んで出て行った。
佳乃はミルクを温めてマグカップに注ぎ、まだ泣いているみどりに手渡した。
「佳乃ちゃん、ごめんね」
みどりは、しゃくりあげた。
「謝ることないよ。みどりは悪くないよ」
佳乃は隣に座って、みどりの頭をなでた。
「でも、佳乃ちゃんに迷惑ばかりかけてるよ。私みたいな子を引き取ってもらってお金もかかってるのに、こんなことになって」
「迷惑なんかじゃないよ。みどりを引き取るときは、正直言って迷ったの。でもね、何をすれば自分が喜ぶのか、どうすれば心地いいのかって考えたら、すぐに答えが出たよ。みどりと一緒にいるのは、私にとっても喜びで救いなんだよ。みどりからは、たくさんの勇気を貰っているよ」
みどりはカップに口をつけた。
「おいしい」
温かい湯気が二人を包む。
「あのね、自尊心が損なわれたら、自己評価がどんどん下がってつらくなってしまうの。でもね、こんな理不尽なことでみどりがダメージを受ける必要はないよ。みどりは誰よりも頑張りやで、それに、とてもとても大切な存在なんだよ。私にとっても産まれてくる赤ちゃんにとってもね」
ぽろぽろと涙をこぼすみどりの顔は、年相応に幼く見えた。佳乃はみどりの肩を抱いた。鎧を脱いだら相手の体温が感じられて、そのぬくもりが身体を心地よくさせてくれる。今身体の中を巡っているのは、きっと温かくてさらさらした血液なんだろう。そして、みどりの体内にも綺麗な血が流れていて、それは赤ちゃんにも届いているにちがいない。
その夜、みどりが眠っているのを確かめて、佳乃はそっと家の外に出た。独りで夜道をゆっくりと歩く。明るい月が空を照らしている。河原に降りて草の上に腰を下ろした。川面が月の光で、ぼんやり赤く照らされている。
世界を作っているものはいったい何なのだろう。何が正しくて、何が正しくないか、いったい誰が決めるのだろう。勉強して、働いて、お金を稼いで、結婚して、子どもを産んで、そして作っていく生活。それは大切なものだろう。でも、それが正しいって決まっているわけじゃない。
私たちを作っているものはいったい何なのだろう。毎日起きて食べて想って寝て、自分の家、椅子、居場所、日常が少しずつ自分を形作っている。そして、それが自分の力になっている。
みどりやみどりのお腹の子は大好きだし、施設の先生も好きだし、山崎さんもやっぱり好きだし、今まで自分に関わってくれた好きだと思う人はたくさんいる。大切なものもたくさんある。そして、自分を見ていて認めてくれる人もいる。
きっと自分も誰かに大切に思われている。昔も今も。
見失ってはいけないよ、迷ってもいいけど、自分を見失ったらだめだよ。そんな想いがじわじわと身体を満たす。
「佳乃ちゃん、私ね、今一緒に住んでいる人と結婚しようと思ってるの」
お茶を飲んでいるときに、シェルターの先生は、佳乃に言った。
「相手はね、三十歳の女の人。私はその人のことがとても大切だし、家族になりたいと思っているの。佳乃ちゃん、どう思う? 普通じゃないと思う?」
シェルターの先生は、年下の女性と結婚しようとしている。山崎さんは、奥さんを亡くしてからもずっと指輪をはずさない。そして、みどりは一人で子どもを産もうとしている。三人とも自分で選んで、前に進んでいる。
佳乃は想いを巡らせる。たぶん、本当にしなければいけないことなんて何もない。気持ちはきっと何にもしばられていない。そう思い込んでいるだけだと思う。どこへ行こうと自由で、何を選ぼうと自由だ。大切なものは、自分で選ぶ権利がある。
昼間の太陽の下では眩しすぎて、見えなくなっていることでも、柔らかい月の光が進む道を照らしてくれている。誰が何を言おうとも、自分は自分で、歩くのが嫌になったら、休めばいいし、別の道を行けばいい。世界がありのままの自分を受け入れてくれないなら、自分が世界を作ればいい。自分らしく生きていける居場所がないなら、うずくまってじっとしていればいい。きっとそのうち歩き出せるはず。道は一本じゃないのだから。誰もがそこを歩かなければいけないなんてことはない。
佳乃の中でいろいろな想いや光景がぐるぐるまわっている。
これから自分はどこへ向かうか、自分でもわからない。でも、自分らしさは失わないでいよう。そして、大切なものを自分は守っていく。それだけでいいよ。十分だよ。
その時、メールの着信音がした。みどりが起きたのかなと画面を開くと、送信者は山崎さんだった。今度めしでも食いに行こうとだけ書かれた画面を、佳乃はしばらくじっと見つめていた。そして立ち上がり、軽く月に向かって伸びをした。
「今日はいつもより身体が柔らかいですね」
そう言って、鍼灸師は佳乃の背中に鍼を刺していく。
「ヨガをしてきたからかな」
心地よいバイオリンの音を聞きながら、佳乃は答えた。
こんなこと聞いて、失礼かもしれないけれど、と佳乃は続ける。
「目が見えにくくて、ずいぶん嫌な思いをしたことも多いんじゃないですか」
背中から肩へと、リズムよく鍼がささっていく。
「どうですかね。不自由ですけどね、嫌だと思ったことはないかな。視覚が弱いぶん、聴覚や触覚はかなり敏感なので、この仕事もできてますしね。それにね」
佳乃の肩に手を置いて、鍼を刺しながら鍼灸師は続ける。
「見えないほうがいいものって多いんじゃないですかね。それに見えないほうがかえって、よく見えることもあるしね」
ふうん、と佳乃はぽつりと言った。
「なんか禅問答みたいで、答えになってないかな」
「いえ、あ、それ痛いです」
鍼灸師は鍼を抜いた。細く流れ出た血を、佳乃は指先で触り、そっと口に含んだ。少し錆の味がした。窓から見える月は、今夜も満月だ。
(了)