夜空に星が光っている。街中でも深夜を過ぎるとかなりの星数が見える。しかし、植田菜摘には見えていないようだった。視線を宙に据え、瞳は無機質に星を映し返している。
彼女の体がゆっくりと前に倒れていく。足が手すりから離れ、そのまま下へと落ちていった。
●横尾典子の立場
私が出社し自席につこうとしたとき、猪田課長が言葉少なに手招きをした。
「おはようございます。どうしましたか」
着いてそうそう呼ぶなんて珍しい。私は机にカバンを置くと気を引き締めて、窓際の課長席に向かった。
「営業企画部の植田さんが亡くなったと連絡があった」
課長が声を落として言う。
「えっ」
聞こえた言葉の意味を理解するのに数秒かかった。
「いつですか。私、昨日社内で彼女を見ましたけど。事故か何かで?」
課長が首を振る。
「自殺らしい。今朝、発見されたそうだ」
「自殺……、どうして……」
私の問いに課長は首を横に振るばかり。
「先ほど、家族から営業企画部に連絡が入ったばかりでよくわからないんだ。取り急ぎ私と営業企画部長とでご家族にあいさつに行くから、横尾さんには退職手続きに関する処理をお願いするよ」
私は課長の顔から視線を外ししばし目算する。課長の背後にある窓からは、道路を挟んだ向かい側のビルの窓がいつも通り見えた。
「今月分の給与や退職金の計算には一週間ほどかかります。社会保険の喪失手続きもしばらくかかりますので、今すぐにご家族にお渡しできるものは何もありませんが……」
「そんなのは後日でいいよ。今日は本当にご挨拶だけだから。向こうもそんなところじゃないだろうし」
「弔事報告はどうします?」
私の問いに課長は目を閉じる。社員用ネットには本人および家族の弔事に関する情報を載せていた。
「葬儀が終わるまで載せないでおこう」
課長の言葉に私はうなずき、席に戻った。
信じられない。
私は昨日の午前中、植田菜摘を見かけたときのことを思い出す。
この六階フロアの廊下を歩いているときに、書類の束を胸元で抱える彼女とすれ違った。いつものように入札、契約に関する書類に社長印を押しに来たのだろう。会社の代表者印は総務部の管理下にあった。
「おはよう」
私は何の気なしにあいさつした。
その時の彼女の表情はどうだっただろう。明るい表情ではなかったが、今すぐに死にそうな顔でもなかったと思う。しかし、なんとなく肌の色が浅黒くなっているように見えた。
「日に焼けた?」
本当にそのぐらいにしか思わなかったのだ。もしかしたら、それが死の予兆だったのかもしれないのに。
「いいえ……」
彼女はあいまいに頭を下げて通り過ぎた。彼女は明るく積極的なタイプではなかったので、その態度に違和感はなかった。
植田菜摘はいつも地味だった。いつもエネルギーの消費を抑えるような態度で、二十九歳という年齢にしては華やかさがなかった。だから、今回の彼女の自殺は意外だった。自殺する気力や勇気など持ち合わせていなそうな子なのに。
そういえば、以前、彼女が通勤時に怪我をした際、会社では通勤使用を禁じているバイクに乗っての事故だと知って、その意外性に驚いたことがあった。
昨日廊下ですれ違った時、何か気の利いた言葉をかければ、死は避けられただろうか。
パソコンの画面に目を向けながらも、頭の中では廊下でのシーンを思い描く。私は彼女と向き合い声をかける。しかし、何度繰り返しても、彼女から思わしい返事を引き出せなかった。
私は小さくため息をつくと、立ち上がって同じフロアの給与厚生課に向かった。給与厚生課の野中課長は興味本位でぶしつけに尋ねてくるので、あまり得意ではなかったが、仕事だからしょうがない。そう割り切ると野中課長の机の横に立った。
「野中課長、まだ広く口外できないのですが」
私は小声で話す。待ってましたとばかりに食いつく野中課長の目。
「植田さんのこと?」
もう噂は広まっているのだ。
「はい、そうです」
「一体、何が原因なの?」
野中課長は眉をよせ顔をゆがめているが、声には期待感がにじんでいる。
「人事課にはそういった情報はまだ届いていません」
彼の興味をきっぱりとあしらって、私は本題に入る。
「早速ですが、植田さんの今月の給与と退職金の計算をしていただけますか」
「一週間ほどかかるよ。急いで計算して間違ってたら困るだろ」
分かっていたことだったので素直に承諾した。
「で、退職日はいつになるの」
私は猪田課長の言葉を思い出す。今朝、遺体を発見したと言っていた。亡くなった正確な時間は分からないなら、遺体発見時が死亡日となる。
「退職日は今日でお願いします」
野中課長はうなずくと、私に顔を寄せさらに小声で言った。
「植田さん、この二、三か月すごく忙しそうだったから。入札や契約の書類を毎日押印しに来てたよ。年度末だから書類が多いと言ってたな」
野中課長は総務部副部長も兼ねていて、会社の代表社印の管理も任されていた。
「会社の管理責任を問われない?」
それが楽しそうな声だったので、私は冷たく彼を見返した。頭の中で超過勤務リストを巡らせるが、植田菜摘の名があったか思い出せなかった。
「事実確認してみませんと何とも言えません」
私は頭を下げて野中課長の席を離れる。給与厚生課の課員たちがさりげなくしかし興味深げに私を見送った。
席に戻ると、植田菜摘の勤怠管理データを調べる。野中課長が言っていた通り、年度末の営業部署は忙しい。受注データをまとめなければならないし、駆け込みの契約もたくさんある。植田菜摘は契約や入札に関する業務を行っていた。営業マンにいろいろ頼まれて大変なのは想像がつく。
営業マンという言葉につられ、私はある男のことを思い出した。四年前までここ本店の営業部にいた男。もしかしたら、あの男が関係しているのではないか。
そんなことを疑いながら、彼女の勤務状況を見る。先月四月の残業時間は六〇時間、三月の残業時間は一〇二時間、二月の残業時間は七八時間。産業医への受診対象は、二か月連続八〇時間以上の超過勤務した者なので、微妙に調査対象から外れていた。人事課からのフォローは何もなされていなかった。
「課長、これ見てください」
私は彼女の残業時間数を打ち出して、猪田課長に見せた。彼は眼を通すと顔をしかめた。
「これ知ってた?」
私は首を横に振った。
「ちょっと、これもらうわ。今から営業企画部長と企画一課長と一緒に植田さんの自宅に行ってくる」
私は急いで彼女の自宅の地図とご家族の名簿を用意する。五十代後半のご両親と社会人の弟一人の四人家族で、会社から一時間ほどかかる横浜市内に住んでいた。
猪田課長が外出した後、私は業務に取りかかろうとパソコンに向かうが、文字が頭の中に入ってこない。植田菜摘の死にまるで実感がわかない。
彼女はどうしてそこまで追い詰められていたのだろう。仕事のストレスだろうか。他に原因があるのではないか。例えば……あの男。
五年ほど前のこと、私はあの男と付き合っていた。男は気が多く、いろいろな女性に近づいてちょっかいを出しては、そのことをこれ見よがしに私に話していた。そんな会話の一つに彼女の名があったはずだ。確かこうだ。
「お盆休みに実家に帰ってたら、突然植田さんが遊びに来てさ、静岡を案内してあげたんだ」
そんな話に辟易していた私は聞き流して終わったはずだ。植田菜摘がそんなことをするのは意外な気はしたが、ライバル視する気にはなれなかった。あの男の好みではないと分かっていたから。
私は三十一歳となり、男との結婚を現実として考えるようになっていた。それなのに、あの男は社外の女と婚約した。私は男を責めた。しかし、男はその女と結婚し、静岡へ転勤となった。それから、四年が経つ。充実した仕事に恵まれ、男のことを思い出すことはなかった。
考えなしに女に手をつける男だ。男に気がなくても植田菜摘にその気があったとしたら、彼女は報われない気持ちになったのではないか。
昼過ぎに猪田課長たちが帰ってきた。そのまま、営業企画部長や総務部長とともに会議室へ入っていく。しばらくして私も呼ばれた。
「ちょっと困ったことになりそうだ」
猪田課長は苦い表情で口を開く。植田菜摘は今日未明にマンション十階の自宅のベランダから飛び降りたらしい。早朝に外に出たマンションの住民が地面に倒れている彼女を見つけたとのことだった。自室に遺書が置かれていたので自殺で間違いないだろうと警察は結論づけたそうだ。二十九歳の娘の突然の死を親はどう思っているだろう。
「ご家族はどのような様子でしたか」
「お母さんが『どうして、どうして』とずっと涙を流していてね。お父さんは比較的冷静だったな。私たちがいる手前、自制が働いていたのだろうが」
「何が原因だったのですか」
私は一番聞きにくく、でも一番知りたいことを聞いた。
「遺書の内容は見せてもらってないので分からない。ただ、」
猪田課長が言葉を切った。
「勤務状況について尋ねられたよ。このところ、毎日帰りが遅かったし、休みの日も会社に行ってた、と。実態をきちんと調べてほしいと言われた」
猪田課長はしばらく黙った。周りの部長たちを見回すと心を決めたように切り出す。
「これから、人事課のほうで植田さんの勤務状況を調べます。同じ部署の方々にも話を聞かせてもらいますのでご協力お願いします。横尾さんはパソコンの起動時間やセキュリティーカードの入退室状況を調べてほしい」
徹底的に調べるつもりなのだ。私は神妙にうなずいたものの、何か的外れな気がして仕方がなかった。
出社、退社、残業時間の報告は自己申告制なので、勤怠管理データだけでは実際の労働時間と違うことがままある。残業をすると評価が下がるという昔気質な考えが、いまだに社内の一部に残っていて、多少のサービス残業は当たり前という人が多かった。人事課では残業時間は正しく入力してくださいと、労基署ばりに注意しているのにあまり効き目がなかった。
植田菜摘も残業時間を少なく入力している可能性がある。そのため、彼女の個人パソコンの起動時間および社内用システムへのアクセス時間と執務スペースの入退室時間を調べることで、より現実に沿った勤務時間が明らかになるはずだ。
しかし、本当に、植田菜摘のご両親は自殺の原因を残業による過労とストレスと思っているのだろうか。仕事のし過ぎで人間って死ねるものだろうか。
サラリーマンは仕事に真剣に取り組んでいても、気持ちには何かしらのゆとりがあるものだと思う。仕事が失敗して会社が損をして、自分が恥をかいたとしても、給料は入るし、路頭に迷うこともない。自分に跳ね返ってくるリスクは小さい。仕事に対してどこか他人事のような気がしているのじゃないだろうか。経営者ならいざ知らず、一介の歯車にすぎぬ社員が仕事に潰されて死ぬなんて、私には理解できなかった。
植田菜摘の死には違う原因があるのではないか。そして、それはあの男に関係があるのではないか。
私は赤い表紙のスケジュール帳を手に取る。植田菜摘のデスクに置いてあったものだ。残業が行われた日時を調べる参考になればと、課長がご家族の了承を得て、人事課の手元に置かせてもらっている。
ページをめくると、入札や契約に関する様々な締め切りの予定、会議の予定、イベントの予定が細かく記載されている。そして、亡くなる三日前の土曜日の欄に「新横浜9:46発、静岡10:56着」と書いてあった。私は目の前が暗くなった。
あの男が彼女を殺したに違いない。
●直原芙美の動揺
思っていたよりも疲れてしまった。
ただいまを言うのもそこそこに居間のソファに座りこむ。
「芙美、塩は?」
母親が塩の入ったビンを手に台所から顔を出す。
「塩なんかいいよ。大丈夫」
「あらそう、今どきはそんなもんよね」
そう言って母は台所に引っ込んでしまう。
塩なんかかけたら菜摘が悪霊みたいじゃない。彼女は決して人に憑りつくような子じゃない。
「夜ご飯食べた?」
「何も」
食べる気などしない。
「じゃ、用意するから喪服を着替えてきなさいよ」
母の言葉に背を押され立ち上がると、二階の自室にあがった。黒いワンピースを脱いで下着姿でベッドにうつ伏せる。
今日は菜摘の通夜だった。彼女が死んだという実感もないまま、すでに三日が経っている。
どうして私は何もしてあげられなかったのだろう。菜摘が忙しかったことも残業していたことも知っていた。「年度末だからしょうがない」と言ってたし、それは毎年のことだったし、まさか死に追い込まれるほどとは思ってもいなかったのだ。
私は何度も記憶を探る。最後に会った月曜日。疲れているように見えたがいつも通りだったと思う。ランチにグリーンカレーが食べたいというので、少し足をのばしてタイ料理店に行ったのだ。「辛いなぁ」と言う私に「辛い物を食べて汗をかくと、一仕事した気になって満足するよね」と菜摘は言った。今思うと食べ納めだったのかと愕然としてしまう。
そうとは知らずに私は「満足、満足。会社なんてサヨナラ~って感じ」とバカみたいなこと言ってしまった。あの時彼女はどんな表情をしていたのだろう。
しかも、店を出るとき一万円札しかなかった私は、菜摘に昼食代を出してもらったのだ。「明日返すね」と言った私に彼女は「いつでもいいよ」と言ってくれたが、その時の彼女の表情も思い出せなかった。
『月曜に菜摘さんから借りていたランチ代をお返しします。ありがとうございました』と手紙を添えて八百六十円を香典と一緒に受付で渡したら、通夜が終わった後、菜摘のお父様に声をかけられた。
「わざわざありがとう。気持ちだけで十分です。こちらはお返しします。ランチ代は菜摘のおごりにしてください」
手渡された封筒の中でチャリと硬貨の音が鳴る。
失礼なことをしてしまったのかと、慌てて非礼を詫びる。お父様は、
「ランチに行く友達もいたことが分かって安心したよ。あの子にとって会社はひどいばかりの所ではなかったんだね」
と気丈に言われたので、私は涙がこぼれてしまった。
「同じ部署で働いていながら、何もできなかったこと申し訳ありません」
「こちらこそ申し訳ない。今日来てくれた人たちには感謝しています。何もできなかったのは私たちの方です」
目を赤くしながら頭を下げられたので、私も頭を下げて帰るしかなかった。
ベッドから体を起こし、脱いだ喪服のポケットから封筒を取り出す。八百六十円がチャリとむなしく響く。
どうして私は何もできなかったのだろう。
通夜からの帰り道、私は後輩の女の子と並んで歩いていた。
「直原さん、江崎さん」
後ろから声をかけられ振り向くと、人事課の横尾さんがいた。今日の通夜は少人数で行いたいというご両親の希望のため、会社から出席したのは営業企画部長、企画一課長、同じ課の私と後輩の江崎さん、そして人事課長と横尾さんの六名だけだった。
「今夜はお疲れ様でした。気落ちする気持ちは分かるけど引きずらないようにね」
「でも」
直球型の江崎さんが口を開く。
「会社で隣の空席を見るたびに、植田さん亡くなっちゃったんだと思うと、心にポカンと穴があいたようです。たぶん、明日だって席について隣を見たらそう思っちゃう。引きずらないなんて無理です」
横尾さんは真剣な顔でうなずいた。そして、私に視線を向ける。
「直原さんも?」
「私は……彼女に対して何もできなかったことが情けなくて。入社してから七年、同期として一緒にやってきたのに」
友達だと思ってたのに、どうして何も話してくれなかったのだろう。仕事が辛くて死にそうと言ってくれれば、もっとフォローしたのに。なんで気づかなかったのだろう。
「何もできなかったんです。私が悪かったんですよね」
「そんなことない。あなた方に責任はないわ」
横尾さんが強い口調で否定したので、私は驚いて彼女を見た。彼女は怒っているようだった。私の戸惑った視線に気づき、彼女はバツの悪そうな顔をした。
「驚かせてごめんなさい」
普段の落ち着いた冷静な声に戻っている。
「もし、希望すればの話だけど、会社が委託してる臨床心理士がいるから、その方のお話を聞いてみない? 少しは気持ちが切り替わるかもしれない」
「考えておきます」
私が返事をすると、横尾さんは「お先に」と足早に駅の方向へ立ち去って行った。
「横尾さんて迫力ありますね。さすが、次期人事課長と言われるだけあります」
「確かに隙がないというか……できる人だよね」
「昔社内恋愛がこじれて大騒ぎになったという噂を聞いたことありますけど、まったくそんな匂いがしませんね」
営業部にいた黒岩さんのことだ。黒岩さんは営業部きってのモテ男だったが、しっかり者の横尾さんの手の上で遊んでいるだけなどと噂されていた。なので、黒岩さんが別の女性と結婚したと聞いたときは皆驚いた。横尾さん当人も寝耳に水だったようで、しばらく言い争いをしている二人を見かけることがたびたびあった。黒岩さんが静岡に転勤になって一段落ついたようだった。
私はそんなことがあっても気丈に仕事をする彼女を同情と敬意の入り交ざった目で見ていたのだが、菜摘は「あんなに噂になった後、会社を続ける勇気、私にはない。あの人怖いよ」と言っていたっけ。菜摘はきっと人の気持ちに敏感で繊細な子だったのだ。
「芙美、ご飯できたわよ」
階下から母の声が聞こえる。ゆっくり起き上がると、封筒に入った八六〇円がささやくようにチャリと鳴った。
私は彼女が仕事で忙しいのを知っていた、知っていてあえて手伝わなかったのだ。
だって、菜摘は仕事ができた。私に回ってくる仕事はアポイントやスケジュールの調整やイベントの手伝いなど実のない仕事ばかりで、難しい書類作成業務は皆が彼女に頼んでいた。
菜摘の仕事が増えていくたびに私は卑屈になっていった。私じゃなくて菜摘がいいんでしょ。そんな卑屈な気持ちが彼女を手伝うことを拒み、そして、そんな私の態度のせいで菜摘は私に助けを求めることができなくなったのだ。私は彼女を見殺しにしてしまったのかもしれない。
私は震える膝を抱え床にうずくまった。
●黒岩圭人の言い訳
会社のアドレスに横尾典子から連絡が入ったのは今日の夕方のことだった。『今夜八時頃、静岡駅に来てほしい』急なうえに有無を言わさぬ感じだったので従うことにした。典子は昔からこんな感じだった。あの高圧感がかわいいと思えたときもあったなんて馬鹿みたいだ。今は嫌悪感しかない。
確かに俺は典子と付き合っていた。彼女の賢明さと行動力は俺を十分楽しませてくれた。ただ、それだけだった。将来の約束はしていないし、それどころか典子とは結婚しないと言っていたのに、彼女は聞く耳を持たなかった。時間が経つうちに考えも変わるかもしれないじゃないと言っていた。そんなことあるわけがない。
俺は営業先への提案書の作成を途中で切り上げると、午後七時半過ぎに会社を出た。駅は金曜の夜のためそれなりに混んでいたが、黒のパンツスーツを着た典子の姿はすぐに目に入った。会わなくなってから四年経つが容姿に衰えは見られなかった。典子は俺の目を見ただけで無言で歩き出した。俺は彼女について駅近くのホテルのラウンジに入る。
アルコールを注文すると彼女は口を開いた。
「今日、植田菜摘の葬式だったの」
「そうか」
彼女が亡くなったことは今日の夕方に掲載された会社の弔事報告で知った。俺にとってはかなり衝撃的なニュースだった。その後、典子から呼び出しのメールが届いたのだ。俺が典子と会うのを拒まなかったのは、彼女の死について知りたかったからだ。
ウェイトレスがビールグラスをそれぞれの前に置く。俺は軽くグラスを持ち上げ乾杯の仕草を見せると、典子は、
「人が亡くなったのに、乾杯する気になる?」
と、冷たく言い放ち、グラスを手にして一口飲んだ。少し頭にきたがその感情を抑えて、俺もそのままビールを半分ほど飲みグラスを置いた。
「植田さんの死は急だったな。交通事故か何かの事故死だったのか」
典子は憮然とした表情で首を横に振る。弔事報告に死因は心不全と書いてあった。普通は大腸癌などの病名が掲載される。心不全は病名じゃない。死因を伏せるときに使う手だった。事故でないというなら、思い当たるものが一つしかなかった。
「自殺か」
典子は俺をにらみながら頷く。まるで俺のせいで死んだと言わんばかりに。
「自宅のマンションから飛び降りたの。遺書もあった」
「なんで自殺なんてしたんだ? 原因は遺書に書いてあったのか」
「遺書は読ませてもらっていない。ただ、ご両親は勤務超過による疲労とストレスのせいではないかと疑っているご様子」
営業企画部の仕事は俺たち営業部のサポートだった。書類の作成から営業マンのスケジュール管理、顧客に対するイベントの応対まで何でもしなければならない。植田菜摘が矢継ぎ早に頼まれた仕事を不平も言わずに黙々とこなしていたのを覚えている。もう一人の女の子の直原芙美が明るくはきはきした表舞台の似合う子だったのに対して、植田菜摘は裏方で力を発揮する真面目ないい子だった。
典子は俺の沈黙にかぶせるように語気強く話しを続ける。
「確かに直近数か月の残業時間はすごいものだった。それに勤怠管理表につけていない残業もあるようだし。会社としてももっとうまく仕事量の采配をするべきだったのかもしれない。ご両親は労災申請をするようなこともおっしゃられているので、労基署からも厳重な勧告を受けるでしょうね」
チクチクと針で突くような口調に、イライラした気持ちが湧いてくる。
「何が言いたい? 人事課の面目丸つぶれということか」
「そんなことじゃない」
典子は冷静に声をあげた。
「私は植田菜摘が仕事のしすぎで死んだとは思っていない。他に理由があると思っている」
瞳に烈火のごとく怒りをたぎらせている。この瞳に覚えがあった。四年前俺を責めていたときの目と一緒だった。
「あんたでしょ」
典子が押し殺した声で言う。
「あんたが原因で植田菜摘は死んだのよ」
心臓を一突きされたような痛みが走る。
俺のせい? 俺のせいだというのか、この女は。
「なぜ俺のせいだと?」
「自分の胸に聞いてみなさい」
瞳が燃えているのと裏腹に口調は鋭くて冷めていた。
「あんたが植田菜摘とどの程度の付き合いだったか、私は知らない。けど、あんたが女に対してどう接しているかは分かっているわ」
「どう分かってると言うんだ」
「誠実さがないのよ。女なんて皆、その場しのぎの相手としか思ってないんでしょ」
「俺は植田さんをその場しのぎの相手になどしていない」
「彼女が亡くなる前の土曜日に静岡へ行ってること、知ってるのよ。結婚している男が若い女性に会うことはその場しのぎの関係じゃないのかしら」
典子は彼女が俺のところに来たことを知っている。そして、俺を死の原因にしようとしている。そんなことされてたまるものか。
「お前は彼女のことを何も知らない」
俺は声を低くして典子をにらむ。それでも典子は目をそらさない。
「お前の言うとおり、この前の土曜に俺は彼女と会った。でも、それはお前が思っているような色恋沙汰な関係ではない。俺と彼女は職場の先輩後輩として仕事について話していただけだ」
「そんな言い訳、信じられるわけないじゃない。何も気づかないあんたに望みを失って、自殺したのかもしれない」
その言葉はまた俺の胸に突き刺さる。
あの日、菜摘を駅まで送りに行ったときのことを思い出す。彼女は別れ際に俺を見上げて言った。
「黒岩さん、本当はどうしたいんですか」
彼女の質問の意味が分からず俺はもう一度聞いた。
「どうするのが一番幸せだと思います?」
「難しい質問だな。俺が俺らしく生きられる世界かな」
彼女は軽く噴き出した。
「黒岩さんらしいですね。家族とか友人とか恋人とか出てこないんですね」
「もちろん俺の周りには俺の愛する人たちがいて、いさかいのない平和な生活を送るんだ」
「自分中心ですね」
彼女の声色に陰りを感じたので、俺は彼女の頭に手を置いて言った。
「大丈夫。その中に菜摘もいるから」
「もう、本当に勝手なんだから」
彼女は笑って俺の手を払うと、手を振って改札の中へと入っていった。
あれが最後の別れになるなんて思っていなかったのだ。俺が発した言葉のせいで菜摘は自殺したというのか。いや違う。彼女が恐れていたものはもっとたくさんあった。
俺は気を取り直すと、典子に対峙した。低い声で尋ねる。
「では、お前はどうなんだ」
「私?」
俺はすぐには答えなかった。しばらくの沈黙のうち、典子の瞳が少し陰った。
「以前、植田さんが交通事故にあったとき、お前は彼女を責めただろう」
「就業規則を守っていなかったから注意しただけよ」
「お前の意識は軽いものかもしれないが、言われた方はそんな易しいものとは思っていない。なにせ、お前には気に入らない男を支店に異動させるだけの力があるんだから」
典子は目を見開いた。怒りの炎は消えている。俺の言葉が効いているようだった。
「あんたの異動は私が決めたわけじゃない。会社の意向よ」
そんなことは分かっている。だが、周囲の人はそう思わない。お前は、私的な怒りが原因で俺を静岡に飛ばした冷淡な女だって、周りから思われているのだ。
「人事にいるお前を恐れている奴はたくさんいるんだよ」
典子は冷静に座っているが、顔は青ざめていた。
「植田さんはお前に目をつけられていると言ってたよ。先週会ったときも『俺に会いに来ているのを知られたら、二人ともクビになるかも』と恐れていた。お前は植田さんをそれだけ追い込んでいたんだ。それが意図してか無意識かは知らないがな。お前はそういう人間なんだよ」
「勝手なこと言わないで」
典子は立ち上がると「気分が悪いから帰る」と言って、早足で店から出ていった。
俺は彼女の姿を見送ると、残っていたビールを一気に飲んだ。
あの女は俺を左遷に追いやっただけではまだ足りないのか。今度は菜摘の死を俺のせいにして会社から追い出そうというのか。
菜摘は俺に気が合ったかもしれない。しかし、俺は彼女と何の約束もしていない。約束のないことを期待されても困るし、責任を負わされるなんて迷惑だ。
俺はウェイトレスを呼び、ビールをもう一杯頼んだ。勝手なことを言って去っていった典子に腹が立って気が収まらなかった。
結局、典子は最後まで謝らなかった。人を責める前に自分のことを省みるべきだ。俺に与えた苦しみの報いを受けるがいい。
俺は悪くない。
●横尾典子の立場・二
青い空に綿菓子のような白い雲が浮かんでいる。まだ五月なのに日差しはすでに夏めいていた。
私はホテルをチェックアウトして、公園の展望台にやってきた。眼下の景色を眺めていると昔のことが思い出される。ここから黒岩の家が見えた。彼が結婚した当初、やはりあきらめきれなくて彼の新居が見えるこの公園に来たことが何度かあった。大きな屋敷の隣に建つ赤い屋根の家が彼の家だった。家の前に白い車が停まっている。これから外出するのかもしれない。
昨夜、黒岩が言った言葉が頭の中を回る。
お前が植田菜摘を追い込んだ。
そんなわけはない。私は仕事をきちんとしただけだ。人を脅かすような人事権力など持っていない。私も取り替えのきく歯車の一つに過ぎない。
お前が植田菜摘を追い込んだ。
彼女は禁止されているバイク通勤をしていた。バイクには乗らないように注意しただけだ。少し厳しかったかもしれないが、危ない行為は止めないといけない。
お前が植田菜摘を追い込んだ。
そうだ、彼女は黒岩の実家へバイクで行ったのだ。黒岩からそう聞いた気がする。だから、私はもうバイクに乗れないように厳しく注意したのだろうか。私は彼女に嫉妬していた? 自分でも気づいていない奥深い嫉妬のせいで彼女への当たりが強くなっていたのだろうか。まさか……。
「ここから何が見えるのですか」
不意に声をかけられた。隣に禿頭のおじいさんが立っていた。おじいさんの言葉に釣られて私は眼下を見渡すが、めぼしいものはない普通の住宅街だった。
「特に何も」
「そうですか」
おじいさんは笑みを浮かべながら言う。
「いや、先週の土曜日もあなたと同じ方向を熱心に見ているお嬢さんがいてね。暑い中ずっと立っていたから、何かあるのかなと思ってね。いや、悪かった」
心臓が激しく鳴った。それはどんな女性でした、と聞こうとして思いとどまる。おじいさんは頭を下げてゆっくりと去っていく。
植田菜摘だ。きっと彼女もここに来て黒岩の家を見ていたのだ。
月曜日に彼女に会ったときのことを思い出す。日焼けして見えたのはここにずっと立っていたから。「日焼けした?」という私の問いに言葉を濁していたのは、黒岩に会いに行ったことを悟られたくなかったから。
黒岩の家から人が出てきた。顔は見えないが、黒岩と奥さんと子供のようだった。車に乗り込むとまもなく発車して、建物の陰に隠れ見えなくなった。
植田菜摘もこんなふうに見ていたのではないだろうか。どうして彼女はこんなところから見ていたのだろう。
私は射るような日差しの中で立ち尽くしていた。
●植田義治の回想
娘がここから飛び降りてから一週間が経つ。空には厚く雲が垂れ込め月も星もまったく見えなかった。眼下には街灯がポツポツと海上の浮標のように浮かんでいたが、家々の窓の明かりは消えている。午前二時過ぎ。ほとんどの人が寝ているに違いない。先程まで布団の中で静かに涙を流していた妻も泣き疲れて眠ってしまった。私は規則正しく聞こえる妻の寝息に安心してベランダに出てきたのだった。
一週間前の今頃、菜摘はここに立っていた。
できることなら、その時に戻って娘を抱きしめ思い留まらせたい。思えばもう十年以上娘の体を抱きしめたことなどなかった。一週間前に変わり果てた娘の冷たい体にすがったのが久しぶりの抱擁だった。
菜摘は幼い頃から親の言うことを素直に聞くおとなしい子だった。やんちゃな弟が悪ふざけをしても、何もないかのように黙って座っているのを見て、同じ姉弟でもこうも違うものかと不思議に思ったことを覚えている。学生時代も部活をせずバイトもせず、家で勉強をしたり家事を手伝ったりと淡々と過ごしていた。妻はそんな菜摘を自慢の娘と呼んでいたが、私には少々物足りなく不満だった。
だから、娘が二十歳になったときに、バイクに乗らないかと誘ったのだ。
若い時の私はバイクが趣味でツーリングによく出かけたりしたが、結婚してからはバイクも手放して遠ざかっていた。それが急にバイクを買ってきて菜摘をツーリングに誘ったものだから、妻は驚いて猛反対した。女の子なんだから怪我をして跡が残ったりしたら可哀想じゃない、との言い分に私も内心は同意していたのだが、当の本人は素直に私の言葉に従ってバイクの後部座席にまたがった。なかなか様になっていると思った。
私の腰にしがみついた娘の腕は細く体は華奢で軽かった。その時、私は絶対にこの子を守ると改めて強く思ったのだ。
孤独に疾走するバイクの世界に菜摘は惹かれたようで、すぐに二輪免許を取りに行った。一緒にバイクを選んだり、ツーリングで遠出したり、あの頃の記憶は私にとって永遠の宝物だ。
娘が社会人になって一緒にツーリングに行くことはなくなったが、菜摘はたまに一人で遠出をして静岡のわさび漬けや山梨のワインゼリーなど甘いのが苦手な私でも食べられるようなお土産を買ってきてくれた。
三年ほど前に菜摘はバイクで自宅から駅に向かっている途中、事故にあった。足の骨折で済んだものの、家族に与えたショックは大きかった。妻は娘にバイクに乗ることを禁止した。私も娘を事故から守るためにはそれがいいと考え、黙って妻の意見に従った。
菜摘の生活が変化し始めたのはその後からだと思う。帰宅時間が遅くなった。夜の十時過ぎに帰ってくるので、私の方が先に帰宅していることが多くなった。
「もっと早く帰ってきなさい。最近は何かと危ないんだから」
そのたびに小言を言ったが、菜摘は困り顔で、
「なかなか仕事が終わらなくて。ごめんなさい」
と言うだけだった。娘の息や体からはアルコール臭や油の臭いやタバコの臭いなどは漂ってこなかったので、残業しているという彼女の言葉を疑わなかった。
休日に出勤することも増えたが「今の時期、仕事が重なっちゃって」という娘の言葉を信じていた。
しかし、半年ほど前だろうか。大阪への出張帰りだった私は、娘が新横浜駅の改札から出てくるのを見てしまった。土曜日の夜九時頃だったので、珍しく旅行にでも行ってきたのかと思って何気なく声をかけた。
「菜摘」
「……お父さん」
菜摘は驚いた顔でつぶやいた。
「同じ新幹線に乗ってたみたいだな。どこか行ってたのか」
「……うん」
うつむきながら答える娘に私は先を促す。
「……ちょっと静岡に行ってきたの」
私は黙って待っていたが、菜摘から続きの言葉はなかった。その無言は私にいろいろな想像をさせる。一人で行ってきたのだろうか。それとも、誰かと一緒に? もしかして、男と一緒だったのだろうか。この子にそんな相手がいるなんて妻の口からも聞いたことがなかったぞ。やはり、親には恥ずかしくて言えないのか。それとも、人に言えないような関係なのか。いや、菜摘は昔からおとなしい子だったし、後ろめたいことができるような子ではない。
この想像がますます私を沈黙にさせる。私と娘は無言のまま帰宅した。
その夜、私は妻にこっそり聞いてみた。
「菜摘は今日どこに行ってたんだい。もしかしたらデート?」
「いやだ、お父さん」
妻はおかしそうに笑った。
「なに、テレビドラマみたいなこと言ってんの。菜摘は会社に行ったのよ。月曜が締め切りの入札資料の準備ですって。今どきのOLって大変なのね」
「え」
私は二の句が継げなかった。菜摘と新幹線の改札口で会ったことを妻に話そうかどうか迷ったが、いたずらに口にして妻を混乱させては困るので私の中に留めておいた。
だが、私の中は混乱していた。妻には会社へ行くと言って実際は静岡に行っていた。やましいことでもしているのではないだろうか。想像は悪い方へと傾いていく。だが、私は事実を確認しようと思わなかった。たまには急にどこかへ行ってみたくなることだってある。以前一人でツーリングに行っていたときのように。気分転換だったのだろう。そう思うことにしたのだ。
それからも娘は忙しかった。夜遅く帰宅して寝てまた翌朝出社してを繰り返す日々。休日もたまに出社していた。先日のことがあって以来、休日の娘の行動が気になっていた私はこっそり後をつけてみた。いつもの通勤と同じく最寄りの私鉄駅の東京方面の改札に入っていくのを見てほっとしたのだ。改札に入っただけじゃ会社に行くかどうかは分からないのに。結局、私は娘のことを信じたいのだ。苦笑しながら家に戻ったのを覚えている。
次第に菜摘はしゃべらなくなった。おとなしいのは今に始まったことではなかったが、妻との会話も途切れがちになるという。顔色も悪い感じだし、食欲もあまりないようだ。妻は気を使って食べやすいものを用意していた。朝食はヨーグルトだけでいいと言われると、プレーンヨーグルトにコーンフレークや小さくカットした果物を添えたり、夕食は遅いからやめようかなと言われると、小鍋に卵雑炊を作ったりして、なんとか娘に栄養を摂らせようとしていた。
「あの子最近眠れないらしいの。病院に行って睡眠導入剤をもらった方がいいかしら」
妻は娘の体調を本人以上に気にしていた。
「本人が行く気ないのに無理やり連れて行っても効果ないんじゃないか。会社にも毎日行ってるし大丈夫だろ」
私は軽くあしらってしまったが、その時に妻の言葉に従っていたら菜摘は助かったのかもしれない。
だが、当時の私は年頃の娘が会社にばかり通っているのを不憫に思いながらも、会社に行っていればやましいこともしないだろうし、仕事が忙しければ得体のしれない男と会う時間もないだろうと安心していた。
あの日も菜摘が休日出勤するというので、軽い冗談のつもりで彼女の後をつけてみたのだ。彼女は予想に反して新横浜駅で新幹線の改札口に入っていった。
私は心臓が縮み頭に血がどっと昇った。改札口に駆け込んでどこに行くのか問いただそうとしたが、たちまち扉が閉まり警告音が鳴った。駅員が駆け寄ってきて、どうしましたかと尋ねるので、私は我に返り頭を下げて帰宅したのだ。
やはり、男と付き合っているのではないか。いや、仕事で出張を命じられたのかもしれない。ただの気晴らしに一人でぶらりと出かけたのかもしれない。私は妻に相談することもできず、娘が戻ってくるまで一人悶々としていた。
夜十時過ぎに菜摘が家に帰ってきた。妻はお風呂に入っていたので私が玄関まで出迎えた。
「遅かったな。こんなに遅くまで仕事だったのか」
「……うん」
彼女は靴を脱ぎながら答える。背を向けているため表情は分からない。
「最近ずっと働きづめだから、たまには息抜きが必要だろ」
(だから、今日はちょっと遠出してきたの。久しぶりに富士山を見てゆっくりしてきた)
私はこんな答えが返ってくることを期待していた。昔、一人でツーリングに行って帰宅したときみたいに軽やかに答えてほしかった。
「……うん、大丈夫」
そう答えてこちらを振り向いた娘の顔は無表情だった。私の記憶の中の娘はどこに行ってしまったのだろう。心を乱した私はつい口走ってしまった。
「今朝、おまえが新幹線の改札口に入っていくところを見た」
菜摘は目を見開いた。土色に近い顔の色が紙のように白くなっていく。
「仕事だったのかい」
娘は無言だった。
「友達と旅行にでも行ってきたのならそう言いなさい」
それでも無言が続く。
「もしかして、人に言えないようなことでもしていたのか」
無言のまま瞳がさまよい下をむく。
「……大丈夫だから」
覇気のない声がかすかに聞こえ、彼女は私の横をすり抜けて玄関脇の自室に入ってしまった。
「菜摘」
私はドアの前で声をかける。
「何をしていたのか、きちんと答えなさい」
答えは返ってこない。
「仕事を言い訳にして、今までも違うことをしていたのか」
言い訳も悪あがきも謝罪の言葉も何も聞こえてこないので、私は彼女の様子を見ようとドアの取っ手に手をかけた。
「あなた、どうしたの」
妻がパジャマ姿で廊下に立っていた。私は妻に本当のことを言おうか迷う。
「菜摘が何も話してくれなくて……」
「菜摘にだって話したくないことはあるでしょ」
いつもなら娘の行動に口うるさい妻が今夜は不思議と寛容な態度だった。
「もう遅い時間だし、菜摘も疲れているだろうかから、今日はそっとしておきましょう」
妻に諭され、私は落ち着きを取り戻した。
「……そうだな。また今度にしよう」
しかし、今度は、もうなかった。この二日後、娘はこの世からいなくなってしまった。
娘の遺書は簡単なものだった。周囲の人への感謝とお詫び。そして、『すべてを捨てて楽になりたい』の一言。
私の思いも私の言葉も娘にとっては重荷でしかなかったのだろうか。
娘を守れなかった憤りと空しさが私の中でせめぎあっている。この憤りが今の私を支えているのだ。それは菜摘を死に追いやったすべての者への憤りであり、自分に対する憤りでもあった。しかし、憤ったところで娘が戻ってくるわけでなく、一瞬にして空しさに襲われる。しかし、この空しさに身を任せるにはまだ抵抗があった。
私は知りたかった。あの夜の叱責が正しかったのか。間違っていたのか。娘を守るためにはどうしたらよかったのだろう。死に追い詰められるまで娘が何を考えていたのか。娘に何が起こっていたのか。
私はすべてを知りたいと思う。
そのためにも私は憤っていなければならない。この憤りはやがて私自身の首を絞めることになるかもしれない。それでも憤りが必要だった。
私は空を見上げる。夜空を覆う雲が街の明かりを反射して薄灰色の波のように見える。出口のないほの暗い水底にいるようだった。
誰が彼女を殺したのだろう。
了