作り話をしている。
鮎の骨を器用に抜きながら、客である磯山さんはわたしの作り話に相づちを打つ。
「だからあなたは、きれいに着物が着られるわけですねえ。若い仲居さんなのにどうしてだろうかと思っていたんですよ」
わたしは、はい、と答える。
「まだまだ着こなしてるとは言えませんが、着物が好きなのは、やはり親の影響なのだと思います」
両親は、ともに友禅染の下絵描きで、小さい頃から着物の図案に囲まれて育った。青海波、雪輪、梅の花……。菊を描く父を見るのが好きだった。さっさと手を動かすので簡単そうに見える。父が描くと寸分の狂いもなく、どの花びらも同じ大きさになって円が完成する。こっそり真似をしてみたが、花びらの高さも太さも角度も揃わない。
「ああいうのを見ていると、職人の家に育ったんだなあ、って実感するんです」
磯山さんは連れの女性に微笑んで見せる。
「身近にそれを感じられたのは、幸せですね。あなたがこういう職業に就いたのもうなずけます」
「すみません、自分のことばかり話して」
わたしはギヤマンの青い徳利を手に取り、磯山さんに傾けてみせた。磯山さんは指先をおしぼりで拭いて徳利と揃えの猪口を取り、薄く残っていた冷酒を、くい、と飲み干した。
「いや、ぼくが聞いたんだから」
磯山さんは舌の先で唇を舐めながら、わたしから冷酒を受ける。
妻ではない連れの女性も、それを見て猪口を取った。
わたしは彼女にも冷酒を注ぎながら、二人の鮎がもうほとんどないことを確認する。
「この鮎は、最高だよ。板前さんに伝えてください」
目線を下げて微笑むことで、磯山さんに返事をした。ふすまを開けて、膝で進んで部屋を出る。
わたしの作り話は、部屋の中に置き去りになる。
ふすまを少し、強めに閉めた。
「さっちゃんのお部屋、ギヤマン出てるのん?」
ギヤマンの桐箱を見て、孝子さんがそう言った。年齢にそぐわないピンクの濃いチークを乗せた顔を、ぎゅっとしかめる。
「お医者さんなんです、磯山さん」
「ああ、それで女将さん張り切ってるんやな」
声を落として、孝子さんはわたしに顔を寄せた。
「気いつけや。あのギヤマン、去年深見さんがようけ割らはって、自腹で買い直さはったんやで。同じのがあらへんから、よう似てるの探して一式買わはったんや。五客の揃えやろ、給料すっかり飛んで行ったやろなあ」
「え、割ったら自腹なんですか」
驚いて少し大きな声が出た。孝子さんが、しい、っと歯の隙間から音を出す。
「あのギヤマンは特別や。お猪口ひとつ五万円。女将さんのひいきの客にしか出さはらへん。あれがないと、一流料亭やないと思ってはるからな」
孝子さんはわたしから体を離しながら、呟いた。
「深見さんが割らはったんも、一式買い直さはったんも、女将さんには内緒や。気に入った器がそっくり変わってるのに、気いつかへんのや、あの人」
孝子さんの小さな笑い声が耳に残る。くすぐられたような気持ちになって、わたしも、うふふ、と笑った。
「サチ、何嬉しそうにしとんねん。冷やし鉢持って行くんやろうが」
調理場からさんの声が飛んだ。
「はあい」
自分の声が、笑みを含んでいる。
女性がお手洗いに立っている間にお会計を済ませ、磯山さんが部屋を出た。廊下の途中にあるお手洗いで女性と落ち合うつもりなのか。わたしは部屋の中に忘れ物がないか確認してから、玄関へ向かう磯山さんに追いつく。
「上田さんは、いつからこのお仕事してるの」
大きな体を揺するようにして歩きながら、磯山さんがわたしに聞く。
「やっと一年経ったところです」
「それにしては、しっかりした仲居さんだ。次からも上田さんにお願いしよう」
玄関では女将さんが待っていた。すらりとした細身に浅葱色の絽の着物を涼しげに合わせ、ごく控えめな笑顔で立っている。お客さんがこの料亭に来て別世界を味わえるのだとしたら、その一番の貢献者は料理でも数寄屋造りの建物でもなく、女将さんの笑顔だろう。毎日見ていても、ぼう、っとなるほど綺麗な、柔らかい微笑み。みんな明るい気持ちになる。だれにだって幸せな夢を見せる微笑み。つられてわたしの唇も、自然に笑みを作る。ふと格子ガラスに映った自分と目が合う。わたしの笑みは作り物臭い。見なかったことにして、目を逸らせる。
磯山さんが靴を履いていると、ようやく女性が姿を見せた。明るい玄関で見る女性は、お部屋で見るより年がいって見える。今年還暦だと言った磯山さんよりひと回りほど下なのだと思っていたが、案外同じくらいなのかもしれない。ファンデーションの下に、いくつか大きなしみが見えた。
ありがとうございました、と女将さんが口を開く。磯山さんが、たいへん満足しました、と返す。そのとき、連れの女性が口を開いた。
「この料亭、お客さんに有名人が多いんでしょう。どんな方がいらっしゃるの?」
「品がないなあ、おまえは」
磯山さんが眉根を寄せ、申し訳なさそうに女将さんを見る。女将さんは笑顔を少しも崩さず、答えた。
「お忍びの方が多いので、ひみつです」
ひみつ、という言葉の響きが幼い。女将さんは、さらに肩をすくめてみせる。笑顔そのものは変わっていないのに、まるで小さな子供のように見違える。磯山さんより年上なのになあ、とわたしはこっそり、ため息をつく。
「上田さんは、さすがに職人さんの娘さんですな。お料理を大切にしてらっしゃる。とても気持ちのいい接客をしていただきました。女将の見る目と教育もいいのでしょう」
磯山さんが作り話を部屋から持ち出す。女将さんは表情を変えず、そそうがなければいいのですが、と答えた。
お見送りが終わると、磯山さんたちの歩いて行った方を見つめたまま、女将さんが口を開いた。
「あなた、ご両親いないでしょう」
「はい、いません」
わたしも視線を動かさない。顔を見ていないけれど、女将の顔から笑顔が消えていることはわかる。それは別に機嫌を悪くしたわけでなく、笑顔でいる必要がなくなったからだ。
「適当なことばっかり言ってると、しまいに自分が誰だかわからなくなるわよ」
女将さんは京都弁まじりの標準語でそう言って、ようやく体を館のほうに向けた。もうすっかりわからないんです、とわたしは部屋から持ち出された作り話を吸い込んだ。
「ああいう人、多いわね。中年の女性に」
草履を脱いで女将さんが言った。わたしは何のことかわからず、背の高い女将さんを見上げる。
「どんな有名人が来るの、ってやつよ」
絶対に言っちゃダメよ。働き始めたとき、何度も女将さんに言われた。仲居には厳格な守秘義務がある。客にほかの客のことを話すということは、どこかであなたたちのことも話しますよ、ということだ。すぐに誰も来なくなる。
「磯山さんも言ってたけど、ほんとに品がないわ」
お客さんがいない所で、女将さんの顔は般若面みたいになる。さっきまでの笑顔とは、まったくの別人。
そんな顔をしているというのに、お帰りのお客さんの姿が見えると、女将さんはごく当たり前のように微笑んで腰からお辞儀をした。女将のお辞儀はとても美しい。速度がゆったりとして優雅で、玄関いっぱいに香りが広がるようなお辞儀。わたしもこんなふうにできないかと思う。
「ありがとうございました。お足下にお気をつけてお帰りくださいませ」
「料理よし、接客よし、女将が美人。また来ます。料理長によろしく」
わたしだけさっさと引っ込むわけにいかず、女将の隣で再びお客さんの姿が見えなくなるまで見送った。
館に入り、広い調理場に向かって頭を下げる。
「楓の間のお客さまお帰りになられました。ありがとうございました」
その声を合図に、料理長が立ち上がる。
「終わり終わり。お疲れさん」
おいーっす、ういーっす、どちらともつかない男臭い声が響く。料理長と副料理長が厨房を出ていき、調理場の全員が白い帽子を取って頭を下げる。すでに片づけはほとんど終わっていて、トップの二人が帰った後の調理場は緊張の糸が解けたように騒がしくなる。
「おいサチ、酒入れてきて」
調理場から湯呑がどん、と出てきた。
「今日は宴会があったから、多いやろ」
お席から返ってくる徳利に残っていた酒は、だいたいいつも調理場に消える。消費するのは合田さんだ。
「あんた、ちょっと最近飲み過ぎよ」
大広間からおしぼり置きを下げて戻ってきたひかるさんが、通りすがりに毒づく。ひかるさんは袴を穿いた男性だが、女性の言葉を使う。
「人のこと言えるんか。酒と男がないと生きていけへんのはひかるさんやろ」
「生意気な口きくようになったわねッ」
二人のやりとりを聞きながら残り酒を湯呑に入れ、合田さんに渡した。
「あんまり飲み過ぎないでください」
わたしの言葉にうなずいてから、合田さんはカウンター越しに顔を近づけて、小声で囁いた。
「今日、飲みに行かんか」
合田さんはすでに酒臭かった。
「人の話全然聞いてませんね。別にいいんですけど」
わたしは袂からゴムひもを出して、たすきに掛けながら返事する。
「いつものところで、待っててください。終わったらすぐ行きます」
「おう」
合田さんはわたしに背中を向けた。湯呑の酒を飲みながら、調理場を掃除する若い調理師をからかい始める。
わたしが仕事を終え、料亭からひと駅離れた焼き鳥屋「はな鳥」に着いたのは、午後十時を回ってすぐだった。調理場が全員帰ってから、小一時間が経っていた。
「お待たせしました」
合田さんはカウンターに座って、ビール片手にまだ若い大将と談笑していた。わたしに気が付くとニカっと笑い、こいつに生ビール、と言った。
店内には若いカップルが一組と、男ばかりの学生らしいグループがいた。八席ほどのカウンターとテーブルが二つの「はな鳥」は、それだけで客があふれているように見える。
「早かったやないか」
「いつもと同じですよ。大将との話が楽しかったんじゃないですか」
「そうかもなあ」
合田さんはまた笑う。覗いた八重歯が濡れたように光る。酔っていて機嫌がいい。
「腹減ったわ。大将、適当に焼いてんか」
合田さんとは、この仕事に就いてすぐに関係が始まった。昨年の春に京都に引っ越してきて土地に慣れないうちに働き始めたわたしを、京都案内したるわ、と言ってあちこち連れて行ってくれたのが合田さんだった。
わたしよりも八つ年上で、今年三十五になるはずだ。彼が作り話をしていなければ。
「お疲れさん」
乾杯して、ビールを流し込む。冷たさが喉を通って、胃に入る。わたしも人並みの体をしているんだ、と考えると可笑しくなる。
「なんやおまえは、いっつも楽しそうやのう」
隣で合田さんがそう言って笑う。わたしには、合田さんこそ「いっつも楽しそう」に見える。
「はい、お通しに」
大将が小鉢を二つ、差し出した。受け取って中身を見る。
「ハモやんけ」
鱧皮とキュウリの酢の物が入っていた。酢の香りで唾が出る。
「今までこの店で、鶏肉しか食べたことないぞ。どうしたんや大将」
大将は首に掛けたタオルで額の汗を拭きながら、照れたように笑う。
「ぼくも、ほんまは板前になりたかったんですわ。こうしてたまに、真似ごとさしてもろてますねん」
「なんで、なりたいもんがあったのに、ならへんかってん」
合田さんはそう言って、酢の物を口に入れた。
「うん、うまい」
大将は炭の上に串を並べ、横目で合田さんを見た。
「ほんまのこと言うてください。焼き鳥には自信があるけど、ほかのもんは、これから上手にならんとあかんのやさかい」
「授業料は高いで」
「ビール何杯でも飲んでください」
合田さんは顔の前で手をひらひらさせて、嘘や嘘や、と言った。わたしはその隣で、酢の物にお箸をつける。
「三杯酢は、だし昆布といっしょに火にかけて、追い鰹して風味出すんや。これは三杯酢のままやろ。酢がちょっとキツいからな、手間かかるけど、いっぺんそうしてみ」
「ありがとうございます」
大将は頭を下げた。
「焼き鳥に大将の汗が落ちるやんけ。頭下げたら、もう食わへんぞ」
はあ、どうも、と言って大将は顔を上げた。そして、さっきの話ですけど、と口を開いた。
「合田さんは、なんで板前にならはったんですか。やっぱり、ずっとなりたかったんですか」
パタパタパタ、と大将の、炭をウチワで煽ぐ音が響く。背中のほうで、学生たちの笑い声が聞こえる。わたしは合田さんの横顔を見ながら、ビールを飲んだ。
「なんでやろな」
そういえば、合田さんのそんな話を聞いたことがない。彼はわたしの話ばかり聞きたがる。わたしがどうして仲居になったのか。京都に来る前は、どこにいて何をしていたのか。どんな作り話をしたのか、もう覚えていない。
合田さんはちらりとわたしを見て、何故か唇の端で笑った。そしてその唇に、ビールを流し込んだ。
「わいは、拾われたんや」
そう言って、ジョッキに残っているビールを全部、飲み干した。
「おかわり」
「はいよ。生おかわり」
ジョッキを受け取った大将が、大きな声でアルバイトの男の子にそう言った。
「料理長にな、拾われたんや」
合田さんはまた、わたしを見て唇を歪ませた。新しいジョッキが来て、彼はアルバイトの男の子に、おおきに、と言った。
「わいは高校を途中でやめて香川から京都に出てきてな、ずっとわけのわからん生活しとったんや。最初はバクチ場で黒服やって、客とケンカしてクビになってな、それから女のヒモみたいなことしたり、やくざの下っ端の、そのまたパシリみたいなことしてたんやわ」
そのとき、焼き鳥の盛り合わせが出てきた。大将は何も言わずに取り皿を大皿の横に置いて、先を促すようにうなずいた。
合田さんは砂ずりを手に取って、一口食べると「うまい」と言った。わたしは梅肉の乗ったささみを食べた。おいしい。
合田さんは口を動かしながら、わたしを見て目を細める。おいしいね、と言ってみる。彼は微笑んで、わたしの頭に手を乗せた。そしてその手を引っ込めると、大将に向かって話し始めた。
「スナックの厨房におるとき、二十一やったかな、料理長が客で来てたんや。ちょうど祇園祭でな、わいは客が料理人やなんて知らんもんやから、遊んで八寸盛りみたいなもんを作ってたんや。中身はチーズやら枝豆やら酒のつまみなんやけど、ちまきや鉾に見立てて盛りつけたんや」
いったん言葉を切り、合田さんはビールを飲む。合田は八寸を盛らせたら京都で一番うまい。料理長がそう言ってるのを聞いたことがある。話の続きは聞かなくてもわかるのに、わたしも大将も、彼が話し始めるのを待っていた。
「ママに呼ばれてな。お客さんが料理のことで、あんたを呼んでる。そう言われたからイチャモンつけよるんやと思て、料理長を睨みつけながら厨房から出ていったんや。そしたら料理長が、なんちゅう目ぇや、おまえやったら勤まる仕事や。そう言いよった」
合田さんは声に出して笑って、焼き鳥を食べた。目の強い人ねえ。あなたなら大丈夫そうね。女将さんがわたしを面接した時、言ったせりふがよみがえった。
「おもろいことしてるやないか。飲み助相手にママゴトしてんのもつまらんやろ。おれの下で働かんか。そう言われたけど、わいは相手が料理人やということを知らんのや。どっかのやくざやと思た。おっさん、見た目も悪いからな。わいはやくざは好かんのや。そう言って、そっぽ向いたら笑われた」
大将が笑って、合田さんも笑った。わたしのビールがなくなったけど、おかわりを言えなかった。
「料理の仕事はスナックの仕事とたいして変わらんと思てたんや。閉店後のママの相手をせんでええだけマシやろ、くらいに思って料理長についていった。そやけど、めちゃめちゃキツかった。怒鳴られて蹴られて、何遍もやめたろ、思た。香水臭いおばはん抱いてるほうがずっと楽や。けど真剣に何か作るっちゅうのは面白かったんや。自分がこんなに料理が好きやと思わんかった。次の日にやりたいことがある生活なんか、それまでしたことがなかったんや。料理長がおらんかったら、わいはどないなってるか、わからん」
合田さんはわたしを見て、すまんな、と言った。何を謝っているのかわからなかった。
わたしはやっと、生のおかわりください、と言った。合田さんはそれを聞いて一気にビールを飲み、わいも、と言った。
大将は二つのジョッキを受け取りながら、何度もうなずく。
「合田さん、そんなええ話を聞かしてもろたら、やっぱり今日のビールはサービスせんとあきませんわ」
「そんなことしたら、来にくなるやないか。人の楽しみをとらんとってくれ」
合田さんの言葉に、大将は笑って応えるだけだった。
「あいつ、ほんまにビール代とっとらへんわ。商売をなんやと思とるんや」
「はな鳥」を出て、合田さんはそう言った。そしてわたしの肩を抱いた。
「しょうもない話して、すまんかったな」
わたしは首を振る。
「知らなかったから、聞けてよかったです」
わたしと出会う前の合田さん。お酒のせいか、目の前の合田さんは少しふらついた。わたしには、さっきの話の合田さんと、いま目の前にいる合田さんが同じ人だということが、うまくつなげて考えられない。合田さんだけじゃない。時間的につながった過去というものを理解できない。
彼のワンルームマンションに二人で帰る。シャワーを浴びているとドアが開いて、合田さんが入ってきた。
「一人でおったら、寝てしまう」
そう言ってわたしを後ろから抱きすくめた。
「わいは、おまえが好きや」
わたしの右足を持ち上げて、腰を落として挿入する。自分で思ったより、大きな声が出た。合田さんの手のひらがわたしの口をふさぐ。足をおろして、シャワーを止めた。合田さんの手が口から離れて、わたしの腰をつかむ。体と体のぶつかる音が、バスルームに響いている。合田さんの動きが速くなる。
最後はしっかりと深いところで終えて、合田さんはわたしの体を抱いた。
「子どもができたらええんや」
五回に一度は、そう言うのだった。そう言いながら、もう一年になる。わたしには子どもなど、できるはずがないのだという確信めいたものがあった。過去のつながりと同じように、今が先のほうにつながっていくということも、やはり理解しにくい。
布団に入ってもう一度、今度は丁寧に時間をかけて、彼はわたしを抱いた。スナックのママもこうやって抱いたのだろうかと思う。女のヒモにしたって、この行為こそが仕事だったんだな、と考える。それでも、その合田さんが今わたしの上で目の中をのぞきこんでいる合田さんと同じ人だとは、やはりどうしても想像がつかない。
眠りに落ちる直前に、合田さんがわたしに言った。
「わいは、親父さんの代わりでもかまへんのや。おまえといっしょにおられたら」
返事しようと思ったら、寝息が聞こえた。わたしも眠りに吸い込まれる。わたしは合田さんに自分のなにを話したのかな、と考えながら。
おばあちゃんはクリスチャンだった。いつも寝る前に、神さまに向かってお祈りをした。
今日も一日、さちこを守ってくださって、ありがとうございます。明日もきっと、さちこを守ってください。
わたしを守っているのは神さまではなく、おばあちゃんだった。おじいちゃんはわたしが小学生の時に肺癌で死んだ。父はわたしが生まれてすぐに、女と駆け落ちしたのだと聞いた。普通は子どもが生まれたら、それまで不仲な夫婦でも戻るものなのに。おばあちゃんはたまに、そう言って笑うのだった。わたしの息子は、できそこないだった。ごめんね、さっちゃんごめんね。おばあちゃんが悪いんだ。
記憶の中のわたしは、心の中で首を振る。捨てられるような母とわたしが悪いんだよ。
母はそれからすぐに死んだとしか聞かされなかった。どれだけ聞いても、死因は話してもらえなかった。話してもらえないという事実で、わたしは母が自分で命を絶ったことを知った。
そういうことは全部、わたしには関係ない。わたしが知っているのはおばあちゃんとの暮らしだけで、両親がいないからといって、たいした不便も感じなかった。不便を感じないように、おばあちゃんが守ってくれた。はじめからいないのだから、両親のことなんて思い出すこともない。喪失感もない。なのにわたしはしょっちゅう、作り話をする。そのお話の中では、父も母もいて、みんな笑っている。
去年、おばあちゃんが死んだから京都に来た。守ってくれるおばあちゃんが死んでしまったら、途端に人の声が耳に入るようになった。長野は田舎だった。狭い社会だった。それまで、いかにおばあちゃんがわたしの衝立てになってくれていたのかがよくわかった。教会の人たちの協力もあったのだろう。高校を出て働いていた小さな会計事務所も、きっと教会の人の口利きだったのだと思う。おばあちゃんが死んだら、急にいやがらせが始まった。
わたしもクリスチャンになっておけばよかった。ひとつでも強固なコミュニティに入っていれば、わたしは逃げ出さなくてもよかったのだと思う。でも中学生のころ、日曜学校のあとで大学生だという牧師さんの息子に襲われて、ずっと教会が怖かった。優しくて神さまを信じていたおばあちゃんには言えなかった。だれかの信仰を邪魔するのは悪いことだと教えられていた。わたしは黙って、高校に合格するまで日曜学校に通い続けた。毎週名前もわからない大学生と、十字架に架けられたイエスさまの前でセックスした。イエスさまは、人間の罪をぜんぶ背負っておられる。
遠くの高校に通うことを口実に、教会に行かなくなった。おばあちゃんは日曜日が来ると、寂しそうにわたしを見た。わたしは部活だと嘘をついて、朝から家を出た。部活に入っていないのに学校に行って、だれもいない教室でお祈りした。イエスさま、見てばっかりのイエスさま。見るだけじゃなく、ちゃんとわたしを抱いてください。わたしをひとりにしないでください。そして校庭を眺めながら、自慰を始めるのだった。
それらもきっと、いつか自分で考えた作り話。覚えている、ということと作ったこととの区別が、よくわからない。
目が覚める。眠った気がしないのに、夜が明けている。合田さんが枕を抱いている。次の日にやりたいことがある生活。わたしにはまだ来ない。何もいやなことなんてないのに、夜が明けなくてもかまわない、と考えてしまう。
「起きる時間」
そう言って彼の体をゆらす。うすく目を開けて、彼はおはようさん、と言った。夜は完全に明けた。
着物に着替えて厨房で挨拶をする。わたしより一時間早くマンションを出た合田さんが他の調理師に混じって、おう、と声を上げる。たくさんの声の中で、わたしには合田さんの声がよく聞こえる。
「さっちゃん、今日のお昼は暇やから七夕飾りを片付けてんか」
孝子さんがホワイトボードの前でそう言った。毎日、その日の予約が書かれるホワイトボードには、二つしか名前がない。
「玄関にひかるさんがいるから、呼んで来て二人で片付けて。昼は女将さん美容院行くって言ってはったから、お菓子でも食べながらゆっくりやってえな」
ひかるさんは玄関に座って、下足番の里中さんとしゃべっていた。七夕飾りの片付けを頼まれたと言うと、大げさに肩をすくめて鼻で笑った。
「あのはんぺん、さっき会ったときは何も言わなかったのに、今になってどういうことよ。さっき言ってくれたら、あたし着物に着替えなかったのに。もう。ほんとに段取りの悪い女ねッ」
ひかるさんは孝子さんのことを、陰で「はんぺん」と呼んでいる。ファンデーションが地肌より白いかららしい。わたしは二人が仲のいいことを知っているから、余計に可笑しくてクスクス笑った。
「だいたいねえ、サチをよこさなくたって、このあと自分が玄関に座るんだから、その時にあたしと交代すればいいじゃないのよう。何考えてんのかしら。女将さんもよくあんな女をチーフにしたもんよ」
よっこいしょ、と言って、ひかるさんは立ち上がった。
「着物が汚れるから、着替えてらっしゃい。あたしも着替えて芸舞控えにいるわ」
はい、と返事をして更衣室に戻った。
舞妓さんや芸妓さんが来たときに使う控室が、玄関の横にある。わたしが着替えてその部屋に入ったとき、ひかるさんはすでにTシャツにチノパンでコーヒーを飲んでいた。
「ひかるさん、若い格好してる」
「あんた、バカにしてるんでしょ」
ひかるさんは以前、女将さんと同じ年だと言っていた。還暦を何年か回っているはずだ。でもせいぜい五十手前にしか見えない。
「きれいにしてないと、若い男が相手にしてくれないのよ」
しゃべらなければ、人目を引く美男子といえる。客として来る同年代のどの俳優より、よほど男前だ。
「女将さん、いないんでしょ。鬼の居ぬ間になんとやらよ。まず甘いもんでも食べましょ」
ひかるさんはそう言って、部屋の隅に置いてある白い陶器の菓子入れを引き寄せた。
「ああ、重い。まるで骨壺よねえ。あ、あんたの分もコーヒーいれたのよ」
「わあ、ありがとうございます」
菓子入れには、おかきや干菓子しか入っていなかった。ひかるさんは文句を言いながら、醤油せんべいの袋を開けて、ガリ、っとかじる。
「七夕飾り、全部燃やすんですか」
玄関と庭、そして大広間の舞台と待ち合いに、それぞれ笹飾りがある。夏の前に従業員全員で作ったのだ。京都の七夕飾りは、紙で作ったひとがたに千代紙の着物を着せるので時間がかかる。去年初めて見て、その手の掛け方に驚いたのだった。去年は知らない間になくなっていた。今年また作ったということは、使い回しはしないのだろうと思う。
「あれもねえ、処分の仕方があるんだと思うのよ、ほんとはね。でもうちはほら、見えないところは合理主義だから。ポイ、と燃えるゴミよ。流すとかどうとか、そういう面倒なことはしないの。保管するにも、場所取るからねえ。伝統ってやつを守るのも、やっかいなのよ」
バキ、と大きな音がして、ひかるさんは笑う。わたしもつられて笑う。
「あんた、食べてごらんなさい。こんなもの歯がいくつあっても足りないんだから」
あはははは、とひかるさんの笑い声は玄関まで届きそうに大きい。
「サチももう、一年経ったのねえ」
ひかるさんは器用に食べながらしゃべる。せんべいのかけらが落ちることもない。わたしはそれに感心してしまい、息の漏れたような返事しかできなかった。
「なんだかもっと、長いこと一緒に仕事してるみたいな気がするわ。あんたにとっちゃ、よくないことだろうけど」
「よくないって、どうしてですか」
ひかるさんは、小首をかしげてわたしを見た。
「こんな変態だらけの店に馴染んでるってことは、あんたも変態だってことよお」
わたしは笑ってうなずいた。
「元は違ったんですけど、うつっちゃったんですよ、きっと」
「ばあか。マトモな人なら三日で逃げ出すわよ」
わたしが来てからの一年でも、何人もの人が働き始めては、すぐに辞めていった。時給がいいので応募は多い。けれども面接を通り働き出してから、何かと理由をつけて辞めるのだった。
「仕事がキツいからじゃないですか。孝子さんが、この仕事は白足袋の土方や、って言ってました」
「そうそう、このまえ女将さんが、万歩計つけてたら一日で二万歩も歩いてたわ、って言ってたけど」
ひかるさんは女将さんの口まねをして、ニヤニヤ笑う。
「あの人が二万歩だったら、あたしたち五万くらい歩いてるんじゃないの」
働き始めたころ、歩いて五分の駅が遠くて、家までタクシーを使っていた。慣れるまでは更衣室で座り込むことが何度もあった。
「だけど、体だけのことだったら我慢できるじゃない。あたしみたいなのと一緒に仕事するのがイヤだって人、けっこういるのよ」
ひかるさんは相変わらず、おせんべいをバリバリいわせながらしゃべる。
「そんな人、いないでしょ」
わたしの言葉は虚しいと、自分でもわかっている。精一杯楽しそうに微笑みながら、わたしは話す。さちこが笑っていたら、だれもさちこに悪い気持ちは持たないよ。みんな大事にしてくれるよ。おばあちゃんの言葉が頭をよぎる。ぜんぶその通りとは言えないけれど、それでもうまくいくことのほうが多い。だからわたしはいつも微笑む。
ひかるさんは、あんたはかわいいわねえ、と言って、がぶ、とコーヒーを飲んだ。
「世の中、そうもいかないのよ。面と向かって言われたことだってあるんだから。あたしがいるから、気色悪くて働けません、って。ブスが負け惜しみ言ってんじゃないわよ。ねえ」
そのとき、玄関でいらっしゃいませ、という孝子さんの声が聞こえた。最初のお客さんだ。
「あのはんぺんだって、苦労してるわよ。今はオバケみたいな化粧してるけど、昔はまあまあ可愛い顔してたのよ。立て続けに男に騙されてねえ。借金まみれでこの店に来たんだから。それにしても、女将さんが一番変わり者かもねえ。オカマとオバケを重宝して、マトモな人逃がしてるんだから」
「ひかるさん、いくつのときからここで働いてるんですか」
わたしは食べかすを手で集めながら聞いた。そろそろ片付けを始めるべきだろう。ひかるさんも時計を見て、ああ、と声を上げる。
「オカマはすぐ、話に夢中になるから」
自分で言って、ひかるさんは肩をすくめた。
「あたしは二十五から世話になってんの。女将さんがお嫁に来た年よ。ほんとにこう、どこかのお姫さまみたいにきれいだったのよ、あの人」
「それで女将さん、ひかるさんを頼りにしてるんですね」
コーヒーを飲み干して、ひかるさんはうなずいた。
「ババア連中から虐められたからねえ、女将さんは。あたしがいつも、愚痴を聞いてたわけよ。あたしが両刀使いだったら絶対手え出して、社長に追い出されてたでしょうねえ」
ぐふふ、と笑って、ひかるさんは立ち上がった。わたしは骨壺の蓋を閉めて、部屋の隅に戻す。
「虐められる側のことは、あたしよくわかるから。見てられなかったわね、ああいうの」
ひかるさんはわたしの戻した骨壺を見つめながら、そう言った。
「きれいな女は虐められるのよ。あんたも気をつけなさいよお」
わたしは、いひひ、と笑って芸舞控えを出た。ひかるさんが脇腹をつっつく。
「なに、その下品な笑いかた。しょうのない子ねえ」
じゃれ合いながら、ふと思った。ひかるさんとは、親子でもおかしくない年齢差なんだ。
ひかるさんが父親だったら、と考えると可笑しくなって、わたしは一人でまた笑った。
「楽しいかわいい子」
ひかるさんが歌うように言う。
「あんたみたいな子どもなら、いてもいいな」
「ひかるさん、エスパー?」
わたしは笑った顔のまま、ひかるさんを見上げる。ひかるさんは、あはは、と大きな声を出す。
「ときどき、わけのわかんないことを言い出すわねえ」
それからわたしたちは、すべての笹飾りを取り外し、節を折ったり葉を切ったりして燃えるごみの袋に詰めた。量が多いので時間がかかる。笹を袋に詰めてしまうと、着物を着せられたひとがたが残った。
「これも燃やすんですか」
「捨てるのよ」
ひかるさんは、ひとがたをひとつ、手に取った。それはどう見ても、人間のこどもを模していた。
「時間をかけて作ったのだけれど。こういうものは新しく作ることに意味があるから。古いものは捨てるの」
くしゃ、と丸める。
「わかるわよ。こんなことしたくないでしょ」
丸めたひとがたを燃えるごみの袋に入れる。そしてもうひとつ、手に取った。
「深く考えないことよ。もういらなくなったゴミ。だから捨てる。このひとがたに何の意味もないと思えば、捨てられるのよ。ほら」
くしゃくしゃにして、袋に入れる。わたしもひかるさんといっしょに、その作業を始めた。作業。だと思えば続けられなくもなかった。
こどもを捨てる。作業、だと思えばできないことではないのだ。人はなにかを考えないようにして、あるいは目の前のことを違うふうに考えるようにして、自分の生きやすい世界を持つのだ。自分の生んだこどもを捨てることだって、作業、だと思えばできる。
わたしはたくさんのひとがたを、ひかるさんと二人でどんどん捨てた。考えないこと。思い込むこと。
その日は一日中、ひかるさんの子どもだと思い込んで過ごした。ひかるさんは父でも母でもある。両親と一緒に働くのが夢なんです。夜のお席でわたしはそう話す。へえ、お父さんは料理人なんだね? 学会で京都に来ている精神科医の先生が言う。お医者さまだから、またギヤマンが出る。わたしは冷たい青を手のひらで包んで、にっこり笑う。
両親は地元で小さな旅館を営んでいて、わたしの帰りを待っている。わたしはもう少しここで修行したら、若女将としてそこへ帰る。
「父と母はとっても仲が良くて、どっちがどっちかわかんなくなる時があるんです」
若いのに髪が薄いお医者さんが笑う。もう一人の年配のお医者さんは、興味深そうにわたしを見つめている。
精神分析でもするつもりなのかな。わたしにも精神があるんだろうな。可笑しくなって、うふふ、と笑う。
「帰るところが決まっているのは、幸せだね」
若いお医者さんが言う。わたしは大きくうなずく。
「しあわせです。さみしくないから」
ふすまを閉めると、作り話は部屋の中にとどまった。話してしまうと、さっきまで両親だったひかるさんはわたしから離れる。部屋から出たわたしはやはり、両親のいない子どもだった。
「今日はあなた、旅館の娘だったの」
お見送りをして、女将さんが呆れたようにわたしを見る。
「こんどあの方たちが来て、旅館の娘さんおられますか、なんて聞かれたらどうするの。わたしは覚えてるけど、ほかの仲居さんたち、そんな子はいません、って返事するわよ」
眉を寄せているけれど、女将さんの口調は弾んでいて、明らかに面白がっていた。
「あなたはいつも、楽しそうね」
合田さんと同じようなことを言う。女将さんは眉の皺を解いて、お客さんにするような、うっとりする微笑みを浮かべた。
「楽しいですよ」
わたしは見とれて、頭の芯がぼうっとした。
「楽しいですけど、なんていうか、そのときそのときだけなんです。……うまく言えません」
どうしてこんなことを話すんだろう。わたしはぼうっとした頭で考えようとする。
「すぐ忘れるってこと?」
女将さんが首をかしげる。少女のように見えて、わたしはますます、ぼうっとする。
「いえ、それが続く気がしないっていうか、時間がつながってる感じがしないっていうか。それに笑ってないと怖いし。それで笑ってると楽しくなるし」
自分でも何を言ってるのかわからなかった。女将さんはくすくす笑って、玄関で草履を脱いだ。
「信じないと思うけど、わたし、それわかるわ」
女将さんは、わたしが草履を脱ぐのを待って、もう一度言った。
「わたし、それわかる。信じないと思うけど」
そして帳場に戻っていった。わたしは少しの間、その場から動かなかった。下足番の里中さんが、どうかしはりましたか、と声をかけたので、ハッとして笑みを返した。
精神科医のいた部屋を開ける。煎茶碗をお盆に乗せて、机の上をふきんできれいにする。
作り話の余韻が残っている。両親だったひかるさんは二人に分かれて、父と母になる。母はゆっくり、女将さんと重なる。そんな都合のいい話はない。たとえ作り話だとしても。
けれどもわたしは、その余韻からなかなか抜け出すことができなかった。
合田さんと休みが重なることは、月に一度あるかないかだった。
「どこか遠いところに行こ」
その休みがやってくる前の日、仕事のあと「はな鳥」で呑みながら二人で行き先の相談をしていた。
「電車乗って二時間ぐらいかかるとこ。おまえと旅がしたいんや」
「どうして?」
合田さんはわたしを見つめながら考える表情を浮かべた。
「なんでかな?」
そう言って、まだ考える。ビールを口に運ぶ。そうしながら考えている。
「現実でも、現実ではないところでも、いっしょにりたいんかな。わいにとって、旅は現実とはちょっと違うんや。じょうずに言えん」
わたしはふふふ、と笑った。
「電車に乗って二時間、からが旅? 一時間半の移動は? 旅じゃない? 現実とはちがうって、非日常っていうことですか?」
合田さんも笑う。
「わからんのや。そやけどなんていうか、店と家とこの『はな鳥』は、わいの現実のような気がするんや。今まで、これが現実なんや、っていう実感を持ったことがなかったんやけど、最近よう、そう思うんや」
大将ビールおかわり、と合田さんが言って、大将が返事する。現実、という言葉がふさわしいのかどうかわからないけれど、わたしにもこの場が確かなものに思える。
「そういうの、考えたことありませんでした。でもたしかに、現実なんてものを実感したことはないと思います」
合田さんがわたしの肩をぽん、と叩く。
「これまではなかったんや。わいもおまえも、しっかりと現実をつかまえられへんかったんかもしれん。けどわいには料理長がいて、おまえがいて、おまえにはひかるさんや女将がおって、いっしょにお疲れさん言うてビール呑む、わいがおる。ああ、これが現実というもので、ちゃんと目の前にあるやないか。ってわいは思うんや」
そして合田さんは、ああそうか、と少し大きな声をあげた。
「おまえと遠いところに行くのは、その現実を広げたいからや。電車の中も、知らん場所も、むかしもこの先も、どれも地続きで同じ現実なんや、って確かめたいんやと思う」
大将が合田さんの前にビールを出す。
「どうしました? なんかええこと思いつかはったんですか?」
合田さんはあはは、と機嫌よく笑った。
「わいとこいつは、さっき生まれたんや」
そしてわたしを見て、グラスをかちん、とぶつけた。
「生まれてきて、おめでとう。サチ、なにもかも、これからや」
わたしは深くうなずいて、おめでとう、と言った。合田さんはありがとう、ほんとにありがとう、と答えた。
わたしたちは琵琶湖の北にある、木之本まで鈍行に乗って行った。川魚料理を食べ、古戦場を見てまわった。合田さんは、こんどは福井まで行ってふぐを食べるぞ、と言った。
合田さんのマンションで次の朝を迎え、ひかるさんと二人で接待の席を担当した。製薬会社と大学の席だった。
「あんまりお席に長居しちゃだめなのよ、この組み合わせ」
ひかるさんが最初の飲み物を揃えながら、わたしに言う。
「よっぽど聞かれちゃまずいことがあるんでしょうね。あたしたちはお料理を出すだけ。楽といえば楽だけど、なんだか調子が狂っちゃうわよね」
そしてじっとわたしを見て、ひかるさんは微笑んだ。
「サチが作り話をする暇もないってわけ」
前室に飲み物とお料理を運び、ひかるさんは、す、っとひざを折った。ふすまに手をかけてわたしを見る。
「じゃ、始めるわよ」
わたしはうなずく。ひかるさんが手をかけたふすまの、その向こうを見た。
了