「今日は美容院へ寄ってから仕事場へ行くので、のことはお願いよ」と言って妻の百合は早々と出掛けて行った。百合はけっして「ラウンジへ」とは言わない。仕事場と言う。確かにラウンジは彼女の仕事場に違いない。
私は、五歳児の息子の真登を椅子に座らせ、百合が真登用にと用意しておいてくれた夕飯の品々をテーブルの上へ並べた。
真登はお箸を握り、それを大きく振って遊んでいる。私は真登と対面して座る。
居間のかけっぱなしのテレビからは若い女性アスリートに国民栄誉賞が与えられたというニュースが聞こえてきた。若いのにすごいものだ、と思った。
「さあ、夕飯を食べろよ」私は、テレビの声に負けないように大きな声を出した。
「パパは?」
「パパは後から」
どうも真登といっしょだと食事をした気がしない。ご飯ぐらいはゆっくりと食べたい。今は、それくらいしか楽しむものは無いのだから。
「さあ、遊んでなどいないで食べなさい」
私は、少し焦り気味だ。何を焦っているのかわからない。心の芯に焦りの棘でも刺さっているような嫌な感じだ。何度も咳をして心の底の棘を取ってしまいたい。
真登はようやく子ども用の小さな箸を使って、小さなコロッケを挟み、それを口にほおばってから私の顔を見てにっと笑う。それから箸をテーブルの箸置きに置き、スプーンに持ち替えてトウモロコシのスープを飲む。口先から黄色い汁が垂れる。私は、真登の前にある皿をそっと自分の前に引き寄せ、上に載っているを箸を使ってだけを取って、皿の端に置く。身の中に骨が混じっていないか箸で掻きまわして確かめる。大丈夫だ。
「魚さんの身だけを取ってやったよ。さあ、これ、食べろよ」
真登は素直に鯵の身を箸でつまんで口に入れる。
「とてもいい子だ」と私は口の中で呟く。
だが、この子が私と百合との絆になりえるのか、と思う。だって、前の妻のは私との間にできた娘の真由美を連れて、さっさと家を出て行ったではないか。真由美はすでに中学一年生になっているはずだ。素直に育っているのだろうか? それに、佳美は再婚したのだろうか? それとも、シングル・マザーとして真由美を育てているのだろうか? 佳美は家を出るきっかけになった男とは別れたということだ。男は結局、佳美とはいっしょにはならずに、もとのにおさまったということだ。
真由美を親元に預けて、前妻の佳美が男と駆け落ちをしたとき、真由美は何かを気づいたのだろうか。それともいつもと同じように無邪気に祖母と遊んでいたので何も思い出すことができないのだろうか。
真登はどうだろう。いつも母親が夜になるといなくなる出来事を心の一番奥底の、思い出せる最初の記憶として残すのだろうか。
佳美が駆け落ちしたとき、真由美は五歳だった。真登も同じ五歳だ。そして、私の母が私を連れて妻子ある男と不倫旅行をしたのも私がちょうど同じ五歳のときだった。
私はそのときのことはすんなりとはいかないものの断片的には思い出すことができる。
広いお寺の境内を走りまわったことははっきりと憶えている。楽しかった。今までの一人ぼっちで家にいた時とは雲泥の差だった。しかも、母が傍にいることがうれしかった。母は働いていたので、私はいつもひとりで家にいた。それに、できるだけ外へは出て行かないようにと言われていたので、家の中か、田舎だったので広い庭で遊んでいた。母と遊びに出かけるなんて父が亡くなって以来初めてのことだった。
それから、泊まった旅館のことも覚えている。前に池のあるところだった。そこで亀を見たことは覚えている。母といっしょにいた男のことはあまり思い出せない。何だかふっくらとしてやさしそうな人だった。どうも、母が働いているところの人のようだ。ただ、母は、いつもより華やいでいた。そのような母を見るのは珍しかった。きれいな服を着て、化粧も念入りにして、子供心にもいつもより美しいと思った。それがとてもうれしかった。父が、私が三歳の時、若いのに肝臓を患って死んでしまって、それから母はいつも憂鬱そうな顔をしていた。
夜のことが一番よく覚えている。男の人とは別の部屋で寝ることになった。私は母と並んで寝た。いつもと同じだ。昼間にとてもはしゃいだのでかなり疲れていたが、それが心地よかった。その日はいつもとは違って、いい気分の日だった。床につくと横合いから母の匂いが漂ってきた。それは少し甘ったるい、赤ちゃんのときいっぱい嗅いだ匂いのようにも思った。それとも、先程、鏡の前で母が顔に付けていた化粧水の匂いだろうか。母は、私といっしょにお風呂に入ったが、いつもは、お風呂から出ると、化粧などしないのだが、私の横に寝る前に、鏡の前に座って髪を丁寧に櫛でといたり、化粧水を塗ったりしていた。それだけがなんだかいつもと違うなあ、と思った。どうしてだろう、きっと、いつもと違う日なのだ。
寝間に入ると母はすぐに横に寝てくれた。母にすり寄るようにして寝た。何だかすっぽりと大きなものに包まれているような気になり、さらにいっそう気分がよくなった。だからすぐに眠りの世界へと引き込まれた。
なにか冷たいものが顔を撫でたような気がして、私は夜中に目を覚ました。いつもは朝まで目を覚まさずにぐっすりと眠りつづけるのに、その夜に限って、寒気が私を取り巻いているような気がした。
私は何気なく横を向いた。すると、そこに寝ているはずの母はいなかった。布団は敷かれたままになっていたが、人がその中に入った気配がないほどに平たくなっていた。電気の消された部屋は洞穴のように闇に包まれていた。寒さがいっそう強く襲ってきて私は数回震えたように思う。母はどこかへ消えてしまった。いったいどこへ?
私から父が去り、今度は母が去って行く。暗闇の中に私ひとりが取り残されたような怖ろしさを覚えた。布団から出て、立ち上がり、入ってきた廊下とは反対側にある障子を開けた。そこには板敷の廊下があった。ガラス障子の向こうは小さな庭でさらにその向こうは板塀だった。左側は壁になっていて、その前にタオル掛けがあって、私と母が使ったタオルが二枚干されていた。右側を見ると、廊下がずっと次の部屋へとつづいていて、突き当たりにはお手洗いがあった。天上には小さな電灯がひとつ灯っていて、それが、黒っぽい廊下を光らせていた。隣の部屋の前にもタオル掛けがあり、そこにも二枚のタオルが干されていた。その部屋は、昼間、私に鹿の餌をたくさん買ってくれたり、おもちゃのボールを買ってくれて、投げっこをして遊んでくれたりした見知らぬおじさんの部屋だった。
私は、板ばりの廊下をその部屋の前へと歩いていった。障子が部屋を隠していた。でも、障子紙が破れていたのか。それとも、障子の下部にガラス部分があったのか、私は、ひょっとしておじさんが母の消えた先を知っているかも知れない、と思って、かがみ込んで中を覗いた。そこは私が寝ていた部屋と厚い板障子で仕切られている別の部屋だった。そこにも布団が一つ敷かれていて、真中の髪の毛が少し薄くなっている男の頭が枕の上に載っていた。おじさんの頭だとすぐにわかった。そのすぐ横にももう一つ枕があり、そこには真中から分けられた女の長い黒髪が載っていた。目が慣れてきたのか、暗闇の中でもおでこのところや鼻先がかなりはっきりと見えた。身体は布団の中に入っていて、それはまるで暗い穴に身体を入れているようにも思えた。それは母であることがはっきりとわかった。母はそこでおじさんと身体をくっつけて眠っていた。
よかった、母はどこかへ消えたのではなく、隣の部屋にいたのだと思うと、少しほっとした。でも、なぜ私の横で眠っていたはずの母がおじさんの横で眠っているのかわからなかった。それに、何だか、見てはいけないものを見てしまったというへんな気がした。それで、そっとそこを離れ、音を立てないように自分の部屋へ戻って布団にくるまった。以前とは違う怖ろしさが布団の奥から襲ってきた。涙が出そうな、変な気持ちだった。
その時、保育園で「お前、まだ、お母さんといっしょに寝ている。甘えんぼ、甘えんぼ」と、お互いにからかいあっていたことを思い出した。「俺なんか、もうとっくにひとりで寝ているんだぞ」と背も高く、大きな身体の友だちが自慢げに言った。「おれもひとりで寝ている」と何人かが彼に呼応して叫んだ。「おれもひとりで寝ている」と私は、彼らといっしょになって叫んだ。そして、それはまるっきり嘘じゃないぞ、と思っていた。寝るときはいっしょだけど、保育園が終わった後はいつもひとりで家にいるんだから。
だから、今、横にお母さんがいなくったって平気だ。今日からは僕は一人で寝る、と布団の中で何度も呟いた。だが、そう叫ぶごとに怖ろしさが増した。自分を支えている布団の下がすとんと穴ぼこに落ちていくような感じだった。でも、だからといって別に母を責める気はまったく起こらなかった。
今から考えると、母もたいへんかわいそうだったと思う。男との不倫旅行をするのに子どもをいっしょに連れて行かなくてはならないなんて。
フウフウウと息子が大きな息を吐いた。その拍子に、私は意識を息子に戻した。真登は、ご飯を残すまいとして、必死に箸を動かしていた。
「ごちそうさま」真登が言った。
「もういいのかい」
「うん」
私は食卓用のテーブルから真登の食器を洗い場へと運んだ。食器を洗い始めた。丁寧に洗わないと、百合が怒り、洗い直される。それはたまらない。だから、洗剤を付けたスポンジで念入りに何度も洗った。食器を洗いながら真登の方を見ると、何だか不思議そうな顔付きをしてこちらを見ている。
「ねえ、ねえ、お父さん、いつから働きに行くの。お父さんが働きにいくと、ママは夜にお家にいるの」
突然、何を言い出すのだろうか、この子は? やはり、真登はお母さんには家にいて欲しいのだろう。百合の代わりなど私にできるはずがない。夜、母がいないのは、家の中心がなくなったような気がするのだろう。心が落ち着かないのかもしれない。それは私だって同じことだ。私は、十ヶ月前に仕事を失った。会社が倒産したのだ。それで、私は昼間の中心をなくした。そして、今、夜の中心も。
私は何も働かないとは言っていない。ただ、私が働こうと思う仕事がなかなか見つからないのだ。私は何も贅沢な選択をしているわけではない。仕事の範囲は広げている。だが、なかなか見つからない。これまでは失業保険もあり、それに退職金もいくらかもらった。それを足せば、給料とほぼ同じほどの金額を百合に渡すことができた。だが、今は、すでに失業保険は切れた。退職金も遣い果たした。百合に毎月渡す金が無くなった。百合は少し貯めてあった貯金を切り崩して、何とかやっているという始末だ。それもどんどん目減りしていくようで、百合が心配して、昼間のパートの仕事から、給料のいいい夜の仕事、ラウンジのホステスへと転職した。何でも、高校の友人の姉さんがラウンジをやっていて、ホステスが足らず、困っているので、少し手伝ってくれないかと頼まれたそうで、二ヶ月前からそこで働き出した。
家のローンもあり、車のローンもある。それに、車のガソリン代、真登の保育園の費用、固定資産税、国民保険、住民税、所得税、介護保険、生命保険、電気、ガス、水道、新聞、パソコン、テレビ、電話、携帯などの費用。日に日に大きくなる真登の衣服代、三人の食事代、百合の化粧品代、毎月いる費用だけでも相当なものだ。それに、真登がもうすぐ学校へ行く。その時の費用に貯金は少しは残しておかないといけない。百合はそう言って、仕事を変えた。そんなのやめておけ、と私は言えなかった。返ってくる答えはわかっている。そう思うなら、あなた、早く仕事を探してよ、だ。口で言わなくったって心でそう思っているに違いない。
「もう少ししたら、ママはまた、夜、家にいるようになるの」真登が言う。
「そうだよ」と私は小さな声で答える。
そういう約束だが、本当にそうなるのだろうか? ラウンジと言ったって、かなり大きくてクラブに近いものだというではないか。クラブやラウンジのホステスなんて、地味な日常とは違うものがありそうだ。その空気を吸い込んだ百合が果たして再び、地味で給料の少ないパートの仕事へ戻れるのだろうか。真登や私との単調な日常に戻れるだろうか。
「ほんとに?」真登は信じていないような口ぶりで頬を少し膨らませる。
「ほんとうだとも。お父さんが昼間働くようになったらね」
「だったら、お父さん、はやく働きに行ったら」
「うん、できるだけそうするよ」
仕事選びは、今度は間違えたくない。大学を卒業するときは、就職氷河期と言われ、国立大でも私のような地方大学の出では、大手には採用してもらえなかった。それに、何も大手である必要はない。むしろ中小企業で能力を発揮するほうがどれほどいいかと言われて、それもそうだと思い、中規模の全国展開をしていたアパレル会社に就職した。だが、その会社は半年前、新興の安売り会社に押されて倒産した。会社を見誤った。もう少し将来性のある会社を選んでおけばよかった。それに、年金支給年齢が上げられる怖れがあり、これからまだ二十年近くは働かなければならないだろう。今度こそ失敗したくない。定年まで働けるような会社に就職したい。だが、中途採用をしてくれる会社は極めて少ない。警備員とか、トラック運転手とか、介護施設の職員とか、葬儀屋の職員とか、あるいは特殊な能力を持っている者、例えば、コンピューター関係の技術者や薬剤師や調理師や一級建築技師や三カ国以上話せる人などなら引く手あまただが、ただの文系出身者などまったくなかった。
最初は同一業界で捜そうと思ったのだが、縮小されつつある業界の中で、それは無理だとすぐにわかった。企画、立案なんて仕事はまったくない。事務職なら経理に強い方というのがほとんどである。それに給料だって、ずいぶんと減る。
若いときの会社選びで、その人の人生が決まるなんて、まったく不条理なことだ。だが、そんなことなど今いくら言ってみたところで、現状は何も変わらない。とにかく、運を天に任せて、ハローワークへ通いつめるより他はない。そのうち何とかなるだろう。だが一方、そんなの甘すぎる、永遠に見つからないのではないか、という不安も起こる。
「ほんとう? いつから?」
「そんなの、わからない。近いうちにだ。ああ、テレビで、ウルトラマンが始まるよ」
真登から何とか逃げたい。彼からそんなことを言われるのが一番辛い。
「そうだ、そうだ」真登は陽気に叫ぶ。
真登は椅子から飛び降りてテレビの前へと走っていく。
やれやれだ、しばらくは真登から離れられる。私は冷蔵庫へ行き、缶ビールを取ってきて飲みたいところだが、後で車に乗らなければならないので、オレンジ・ジュースを飲む。栓を開き、いっきにぐいと飲む。冷ややかで柔らかな甘みが心地よく身体に染みる。もう一度、缶の口を唇をあて、少し仰向き加減で液体をすする。同じような旨さが食道を喜ばせながら通る、だが、こんなことをしていていいのか? と思うと甘みが消え、粘っこさだけが舌の先に残る。仕事を終えて、帰りに心置きなく飲んだ缶ビールの味わいを思い出す。
妻の百合は、今ごろ、客から勧められたウイスキーの水割りをぐいぐいと飲んでいるのだろうか。仕事だから仕方がないわ、と思いながら、それとも、ただで飲めるからラッキーとでも思っているのだろうか。
アルコールに弱い私と違って、百合は酔わないタイプだ。だから今の仕事に適している。
百合は「いい人が来てくれた、ずっといてね、と、ママさんがたいへん喜んでくれているの。お客さんもいい人が多くてね、慣れない仕事だけれど楽しく働けるわ」と言っていた。彼女は人当たりはいいし、聞き上手だ。なんでもすごく感心してみせる。それも本気で感激していると思わせる。それで話し手はいい気分になる。百合は自分の長所に気づいたかもしれない。その長所がお金になる、と思い始めたらたいへんなことになる。
残りのジュースをすすり上げ、空き缶を容器専用のごみ箱に投げるようにして入れる。カツンといった嫌な音が一度だけ鳴る。
門柱からの呼び鈴が鳴り「麻尾ですけれど」という女性の声がインターホンごしに聞こえてくる。隣の奥さんからだ。これは気をつけないといけないぞ、百合が水商売に勤めている、などということは絶対知られたくない。もし、知られでもすれば、隣、近所はもちろん、保育園の保護者まで知れ渡ってしまう。私が失業中だということも知られたくない。ただ、家にいることを隠すことはできない。少しは離れているとはいえ、すぐ隣だから私の姿が日中ちらちらと見える。まさか、引きこもりのように家の中でじっとしている訳にはいかない。だから、百合には、聞かれたら、「友だちの会社に引き抜かれたんですが、ちょうどいい機会だからと言って、しばらく休暇をいただけるようにお願いして、休ませてもらっているの。友だちは早く出てきてくれ、もうそろそろいいだろうと言ってくれているのを、主人はもう少し、もう少し、と言って強引に引き延ばしているのよ」と言うように言ってある。真登にも、お父さんは今お休み中と言えと何度も念を押した。彼には会社が倒産して、働き口を失ったなどと告げていない。しかし、それももう限界だ。会社へ行くふりでもしなければならないだろう。
「はい、どうぞ。すぐ玄関を開けます」
私はできるだけ明るい声で答える。
「主人が、釣りに行ってきて、たくさんお魚を釣ってきたものですから、よかったら食べてもらおうと思って」
「それはどうも。いつも獲れたのものをいただいて、申し訳ありません」
魚をいただくのはありがたいのだが、ううん、……、と素直になれない。
奥さんは玄関先に保冷箱を置きながら蓋を開ける。
「どうぞ、何匹でもお取りください」
鯖の背は冷ややかな藍色に光っている。まるまると肥っていて、脂ののりがよさそうだ。白い腹は絹のように艶やかだ。
「では、これを」
私は片手で頭を掴みあげる。
「ではそれをこの中に」
奥さんはビニール袋を差し出す。私はそれを受け取り、魚をそれに入れてぶら下げる。
「どうぞ、もう一匹」
奥さんは、ゴムの手袋をはめた手で魚を掴んで私の袋に入れようとする。
「いや、もうこれだけでけっこうです」
私は後ずさりをする。奥さんは「ご遠慮なさらないで」と言って、私の袋を掴んで強引に大きな鯖をもう一匹入れた。
「二匹もいただいて」
私は恐縮した声を出す。奥さんは勝ち誇ったように、にこやかに目尻を下げる。
「ご主人、釣りがお上手なんですね」
「上手なのかどうなのか。主人、これ、獲れたてで、すぐに氷詰めにして持って帰ってきたから、刺身にしても食べられるって、そう伝えるようにって」
「そうですか。鯖の刺身っていいですね」
私は、喜んでいるふりをする。鯖って、腐るのが早いから、気をつけなければ、と思う。火を通せば大丈夫、と母が言っていたことを思い出す。やはり、火を通さないとな、と思う。
奥さんは得意そうだ。明るい顔でにこやかに笑顔をつくる。女性は笑っているときが一番美しい。だが、百合はこの頃、ほとんど笑顔を見せない。この奥さんは、きっとご近所にご主人の力を見せつけられる幸福を感じているのだろう。私には見せる力など何一つない。その反対に、力のなさならいくらでもあるのだが。
夫婦関係もうまくいっているのだろう。それに、ご主人の仕事も順調なのだろう。私とはえらい違いだ。何だかそれを私に見せびらかしにきたようなひねくれた思いが起こってくる。
「真登ちゃん、このごろお父さんに送り迎えしてもらっていいな、って、うちの翔太はうらやましがっていますわ」
「いや、送り迎えってたいへんですね」
こんなとき、何と答えたらいいのか、と戸惑う。
「それに、夕方、真登ちゃんが庭でボールけりをしてもらっていた、なんて言って。いいな、うちのパパとはえらい違いだって」
小さな声を出して笑う。笑いの中に小さな棘が混じっている。ひょっとして私に探りを入れているのだろうか。私を見ていやに楽しそうではないか。
私は視線をビニール袋へ移して、奥さんから目をそらす。ビニール袋に入れられた鯖の目玉はどんよりとしていて、まるで強度の白内障にでもかかっているような目玉だ。先程、保冷箱の中にあったときの黒い瞳と氷色に光っていたまわりの白目とは大違いだ。それはビニール袋のせいだろうか。そうではなく、急激に鮮度が落ちたような気がする。
毎日、帰りが遅く、休日には趣味の魚釣りに出掛けるような旦那だけれど、働きもせず、家でぶらぶらしている隣のご主人に比べたらずいぶんとましだわ、男はやはり働かないとね、と、彼女が自分で自分を慰めているようにも思えてくる。「あのね、真登ちゃんのお父さん、どうも失業したらしいわ。家でぶらぶらしているの。奥さんが働いてお金を稼いでいるみたいよ」奥さんが保育園へ子どもを送っての帰り、保育園で知り合ったお友だちの輪に向かってそんなふうに言っている姿が思い浮かぶ。
「へえ、そうなの」
「それも、夜のお仕事みたいよ。夜遅く、ご主人、車で迎えに行かれるの」
「信じられない。それじゃ、完全なヒモじゃないの」
「今はそう言わないの、シュフと言うのよ」
「ええ、シェフではなくシュフなの、フは夫という字の」
「そうよ、上手に考えたわね、これ」
保育園での母親たちがそう言いながら、大声で笑い合っている光景が私の脳裏の中を駆け巡る。耳元でその声が渦巻きになって荒れくるう。
こんなことでは真登の保育園への送り迎えさえ、ままならないではないか。
隣の奥さんは保冷箱の蓋を閉め始めた。留め金を留めながら言う。
「このごろ、奥さんはあまりお見かけしませんが、お元気でいらっしゃいますか」
「ええ、元気にしております」
「何だったら、また、ごいっしょにランチでも」
「ありがとうございます。女房に言っておきます」
「じゃ、私は、これで、残りの魚、ご近所に配らないといけませんので」
「ありがとうございました。ご主人によろしく」
奥さんは保冷箱を重そうに両手で抱え持って、門扉から外の道へと出て行った。私は深々と頭を下げた。まるで洋服を買ってくれたお客さんに頭を下げるように。
鯖を一匹ずつビニールの袋に入れ、冷蔵庫にしまった。それから、もう一缶、何かを飲もうと、冷蔵庫を開けたがもう何もなかった。ビールも飲めない、ジュースも飲めない、リポビタンDも飲めない。ウーロン茶もない。腹が立ってきた。腹を立てるようなことではないことはわかっているのに、その辺にあるコップでも茶碗でも床にたたき割りたいような気分になった。深呼吸を四、五回もした。得体の知れない透明な力が私を圧してきた。
飲み物がなければコンビニへ買いに行けばいいではないか。
私は書斎に入り、テーブルの上に置いてある財布を握ると玄関へ向かった。居間を通るとき真登を見た。真登はテレビに夢中だ。
「ちょっと、コンビニに行ってくるから。どこにも出て行ってはだめだぞ」と叫ぶ。真登は何も答えない。まあ、いい。聞こえているだろう。私は、二度繰り返して言う気力がなかった。鍵をかけていこうかと思ったが、そう心配することもないだろう。すぐに帰ってくるのだから。
道路に出ると、陽はまだ高かった。歩道の脇の木々に西日があたって、葉裏は透明で明るいグリーンに輝いていた。風があるのかそれらが揺れると、葉の群れに別の葉の影が映り、それが川面の波のように揺れた。
コンビニの前まで来ると、三十半ばぐらいの女性達が三人ほど固まって、かなり大声で話し合っていた。ボブスタイルの髪で、ジーンズを穿いた女性には四歳ぐらいの女の子が、母親のズボンのまわりを退屈そうにぐるぐるとまわっていた。
「へえっ、やっぱり、そうなると思っていたわ」
鍔の大きな白っぽい帽子を被って、かなり長い付け睫毛をし,化粧の濃い女性が驚いたような声を出した。
「わたしもそう思ってた、旦那、もっと考えんとあかんわ」ジーンズを穿いた女性が言った。
「あの旦那、しっかりせえへんからなあ。気、いい人やのに。芳子は、尻にひいていたから、よう止めやンかってんな」もう一人の女性が言った。
彼女はちょんまげのように長い髪を首の上十センチ辺りでくくり、長い髪の束を肩の下まで垂らしていた。それに、短めの黒パンツを穿いていた。美しいふくらはぎと馬のそれのような引き締まった足首をしていた。
「都司ちゃん、かわいそうやんか。わたしなら、そんなことようせんわ。第一、旦那いるのに、そんなところへよう勤めやん」付け睫毛の女性が言った。
「何言うてんの。あんたが一番そんなところへ勤めそうやんか」黒パンツの女性が笑いながら言った。
「馬鹿を言いな、人を見かけで判断せんといて」
私はその横を、首を少し縮めながら通り、コンビニに入った。何を言っているのかよくわからないが、聞きたくない会話のように思えた。それに、「旦那、もうちょっとよう考えんとあかんわ」という言葉が私に向かって発せられたように思えた。
店内には客は少なかった。奥の方の弁当売場のところに若い男が二人、何か話し合いながら、立ち止まっていた。レジの方を見ると、女店員が退屈そうに入口の方を眺めている。私は、缶ジュース、缶ビールと思いながら店内を眺めまわした。
と、突然、携帯の呼び出し音がなった。携帯をポケットから取りだし、耳に当てた。「あなた」と百合の声だ。「今どこ」と言った。
「コンビニ、缶ジュースや缶ビールがなかったから」
買い物するのはいいけれど、ちゃんと真登を見ておいてよ、と言われそうに思ったが、百合は何も言わなかった。
「あのう」
何だか言いにくそうだ。
「なんだい」
「あのね、今晩、迎に来てもらわなくってもいいわ。お客さんでそちらに帰る人がいるのよ。いっしょに乗せてもらうから」
「ええっ。別に迎えに行ってもいいよ」
「いつも迎えに来るのたいへんでしょう。たまには休ませてあげるわ。夕食に缶ビール飲みたいのでしょう。飲みなさいよ」
「いいや、そんなのかまわないよ」
「でもね、今夜は貸し切りのパーティーがあるのよ。それで、いつもよりかなり遅くなるわ。それに、同じ方向で送れる人がいたらタクシーに同乗させてホステスさんを家まで送るということになっているらしいの。タクシー代を持ってもらうことになっているから、それを節約したいのじゃないの。だから、車の迎えはいいわ。先に寝ておいてね」
「いったい、何時頃になるんだ」
「わからない」
それだけ言うと電話が切れた。
いつもよりかなり遅くなる? 本当に貸し切りのパーティーがあるのか? 家を出るときから百合の様子が少しおかしかった。ひょっとして、同伴で客と店に入るために彼とどこかで落ち合い、その彼に今晩付き合えと言われて、そうするわと答えたのではないか。夜の付き合いは、寿司屋ぐらいなら仕方がないが、それ以上は困る。それは絶対に困る。
心がざわつく。「そんなに私が信用できないの」という百合の声が聞こえてきそうだ。そんなんじゃない、と私は叫ぶ。百合にそんなことがあるはずがない。
同じ街にある実家に娘の真由美を連れて帰っていた前の妻が、駆け落ちを決行したと思われる日の朝、私は彼女に電話を掛けた。佳美が出た。私が電話を掛けてきたことに驚いたようだった。
「もう、何日実家にいるんだ。そろそろ帰ってきてもいいんじゃないか。迎えに行くよ」
私は少し怒りの含んだ声で言った。
「同窓会があって、真由美を預けて、安心して出席したかったから。それに、友だちがたまに会ったのだから、一日ぐらい、泊まって行きなさいなどと勧められて、泊まったし、昨日は父の誕生日で、兄弟姉妹でのお祝いをしたもので、つい長居をしてしまったわ。ごめん。明日帰るから」と言った。
「じゃ、明日、仕事の帰りに実家に寄るから」
「いいわよ、あなた、忙しいんでしょ」
「でも、何とかして行くよ」
「いい、いい、都合のいい時間に帰るから」
「そうか。それだったら」
それが彼女との最後の言葉となった。明くる日、夕刻六時頃に帰宅したが、妻の佳美も娘の真由美も帰っていなかった。慌てて実家に電話すると、「すいません。佳美に伝言を頼まれていました。佳美、今日もまた、同窓会へ行きました。この間のは高校の同窓会で、今日は小学校の同窓会だそうで、先日、高校の同窓会へ行ったばかりなので、行くつもりがなかったらしいのですが、夜、幹事の方から電話が掛かってきて、ぜひ、出席してほしい、先生もお歳で、これが最後になるだろうとさかんに誘われていたようで、断り切れずに、出掛ける気になったようで」
佳美の母親の声だ。ときどき、声を出しにくそうに咳き込みながら言った。
「すみません。本当に、ご不自由をかけて」
佳美の母親は頼りなげな声を出し謝った。
「そうですか。帰ってきたら、また、電話するように言っておいてください」
「すいません。ほんとうに」弱々しい声がいっそう弱々しくなった。
電話を切ってから、どうもおかしい、いくらなんでも、そう同窓会がつづくものではないだろう、と思った。何か、帰れない理由でもあるのか。それを取り繕うために母親はあんな嘘をとっさに言ったのかもしれない。それとも、一日でも長く、実家に世話になって、楽をしたいので、佳美がそう言えと母親に告げていたのかもしれない。
ええぃ、前妻の佳美のことなどどうでもいいではないか。こんなことを考えるなんてまったく馬鹿げている。あれはあれで、きっちりとけりがついたはずだ。自分でも、驚くほどすばやく決断をしたではないか。
だのに、なぜ、今ごろそれを思い出すのだ。百合には何ごとも起こっていないうちから、ひょっとして百合も? なんて、恐怖感にとりつかれたりして、どうかしているよ、これは、と自分で自分を嘲笑う。
店を見まわす。レジの女店員を眺める。彼女は両手を後ろにやっている。首の辺りで掌を握り合わせている。それが頭の先まであがる。背伸びをして身体をほぐしたのだ。彼女は今、幸福なのか不幸なのか。
自動扉が開く。萌葱色のニット帽を深くかぶり、オレンジ色のパーカーをまとった若者が店に入ってきた。レジへと向かう。レジの女店員は両手を上げ、胸を突き出して背伸びをくり返していたが、それをやめ、ニット帽の若者に微笑む。一気に顔付きが変わる。眉間を寄せ、微笑みを顔中に漂わせる。頬の張りが艶やかなリンゴの肌のようになる。
「元気」とニット帽が顎をしゃくって言う。まるで友だちのようだ。
「ええ、元気よ」
間違いない、彼が来てくれてうれしくてしょうがない、といった表情だ。ほほの色が華やいでいる。
「また、きちゃったよ。今日で連続五日」
「もうそろそろ来るかなと思ってた。今日は何?」女店員は目を細めてにこやかな表情をする。
「おにぎりでも買おうかな」
「またおにぎり、今日はお弁当がいいのが来ているよ」
「じゃ、それにしようか」
若者はうれしそうだ。彼がデートに誘うのも間近だなと思う。結局、女店員は幸福な状態だったのだ。何だか彼らには生きることへの自信のようなものがほとばしっている。少々の不安など蹴散らかしそうだ。では、その自信の源は? きっと若さなのだろう。可能性への信頼か。
私も、百合に同じようなことをして近づいたことを思い出す。だが、彼らとは少し違っていたようにも思う。
百合は私の勤めていた会社の地方の販売店に勤めていた。私はその店の指導を任されていたので、本社から何度も出張した。その度に、何とか百合に近づこうといろいろ工夫をした。最初は、客に対する応対の仕方を観察していて、それを褒めちぎった。それから、品物の置き方で改めたらいいと思うことを聞き出し、なるほどなるほどと、感心してみせたりした。彼女を呼び寄せ、店長の前で、この子の感覚は拔群にいいといったりした。女性の感覚を取り入れたいから、店が引けてからちょっと付き合ってくれないか、と言って誘ったりした。
彼女のどこがよかったのか、と聞かれても困る。女の魅力が漂っていた、私を惹きつけるものがあった。それに、私を肯定してくれたことが大きかった。「やっぱり、奥宮さんはちがうわ。奥宮さんの話を聞いていると、なるほど、なるほど、と思えるもの」と何度も言ってくれた。それが涙が出るほどうれしかった。前妻の佳美からは、いつも「あなたはだめ。他人のことは何も気づかない、それでよく、店の指導などやっていられるわね」とか、「あなたは本当に自分勝手、自分のことしか考えていない」とか、「なんで、ものごとをちゃんと最後までやりとげないの、いつも中途半端でおいておくの」とか、「忘れ物がおおすぎる。私の言うことなんかうわの空で聞いているんでしょう」とか、「あなたは犬といっしょよ。やりたいことはやるが、後片付けはけっしてしない」とか。
百合の場合、好きになる理由にも、好かれる理由にも、さらには、くどく方策にも、会社が大いに関係していた。本社社員という肩書きをフルに活用させてもらったし、奥宮の指導する店の成績がいい、という社内の評価にも自信を深めていた。それが百合をくどく迫力の源にもなっていた。
結婚当初からかなりの間、私の方が百合を主導していた。私の方が力があった。家庭づくりにも私の方が経験者であり、店を指導していたという習わしも尾を引いていた。だが、徐々にその力はなくなり、百合の家庭での力は増していった。だが、私がまだ勤め人だったころ、百合に対しては、もう少し強気に出られた。それもやはり、会社というバックを背負っていたからだろう。
日曜日でも、今日は仕入れ先の接待だから出て行かなければならない、と言えば、百合は何も言えなかった。遅く帰っても、会社の会議が長引いたから、また、どうしても明日までにしておかなければならないことがあったから、と言えば、百合は何の苦情も言えなかった。だから、真登の世話を百合に任せておいても、百合は何も文句を言えなかった。前妻の佳美も同じだ。佳美も実家のお母さんの助力を得ていたとはいえ、真由美を一人で育てたようなものだ。だから、離婚の折、真由美にどちらにつくか尋ねたら、お母さんと何の躊躇もなく答えた。
真登はどうだろう。もし百合と別れることがあったら、真登はどちらにつくだろうか。当然、お母さんと言うに決まっている。
若者は、弁当をビニール袋に入れてもらい、レジでお金を払って、「じゃ、また」と言って、出口へ向かう。ドアのところで振り返り、レジの女店員に微笑んで、ビニール袋を肩まで上げる。レジの女店員は、同じようににこやかに笑っていた。彼が出口を出て、見えなくなるまで見送っている。女性の笑顔にはなんとも言えない人を和ませる魔力が潜んでいる。百合が最近、私に微笑んでくれたことはない。彼女の曇った顔付きには私の心はもうあなたからどんどん離れていっているのよ、と言っているようだ。
缶ビールや缶ジュースを買う気が急速に萎えた。だが、せっかく来たのだからと思い、その売り場を探し、それぞれ一缶ずつだけを持ってレジへ行った。女店員は事務的な声で値段をいい、レジ袋にそれを入れて「ありがとうございました」と情のこもらない声を出した。お愛想でもいい、微笑んでくれればいいのに。
私はそれを下げて出口へ向かい、そこで、女店員を振り返った。女店員は私の方を見ずに、店内を見まわしていた。
ひょっとして、私の中に女を苛つかせる何かが潜んでいるのかもしれない。瞬間的に会う女にさえ、それが本能的にわかってしまうのかも。もしそうなら、逢う女、逢う女、みんな私から去って行くことになる。
人を苛立たせる、と言えば、一度だけそんな女と付き合ったことがある。私がまだ百合をくどく前のことだ。
女は顔の小さな、目の大きな、鼻筋のとおった人だった。子どもが一人いたが、旦那が単身赴任中に、向こうで女ができて、別れてくれと言われたらしい。旦那と別れてから、何人もの男といい仲になったそうだが「どうもうまく行かず、すぐに別れることになるの」と女は言った。「どうも、男とはうまくいかないのよね」と何度も繰り返した。「私も苛つくし、相手も苛つくらしいの。どうしてだかわからないのよ。でも、旦那も言っていた。お前といっしょにいると何だか苛立つと」
きれいな人だったし、どこか男を惹きつけるものを持っていた。一時、私も彼女の虜になった。何としてでも彼女を私のものにしておきたい、という気になった。だが、彼女に夢中になればなるほど、彼女と逢っていると苛ついた。私が出す直情が彼女の芯のところで強く跳ね返され、戻ってくる。そのことがまた、いっそうそれを届かせたいという思いを倍加させる。
「わたし、あなたに同質のものを感じるわ」とも言ってくれ、私の願いは素直に何でも聞いてくれた。私に嫌なことを言うわけではない。私の言うことに逆らう訳でもない。素直に感動してくれたりもした。だが、感動されても、私は満足できなかった。むしろ反発して欲しかった。その方が、私の思いがストレートに彼女の心に届いたと思えそうだった。
性関係の時がもっともひどかった。抱きながら、何とか彼女の身体の中に私の身体を落とし込ませようとした。それを願う私の動きに彼女は反応を繰り返してくれた。だが、その反応が私の身体に素直に入り込まなかった。何か、下手な演技を見せつけられているような寒々とした感じだ。それどころか、私の動きを止めて欲しいというサインを出しているようにさえ思えた。それではいけない、と私は焦り、もどかしさがわき起こってきて、それに抗うために汗みどろになり、物理的に生じてくる快感を必死で押さえながら、腰の運動をますます激しく行なった。だが、そうすればするほど、いっそう心の芯が届かないもどかしさを感じた。もういい、どうにでもなれと思って果ててしまうのが常だった。
彼女の内面も私と同じではなかったか。彼女も私に溶け込ませようとしてそれが果たせず、必死で反応を繰り返しながら、それでも届かないもどかしさにあがいていたのかもしれない。だから、セックスをした後の彼女の表情はいつも曇っていた。しばらくの間、不機嫌だった。
「どうしてなんだろう。私とセックスをした男が、別れ際に、君とやっていると心が寒々とする、まるで不感症の女とやっているような、と言ったのよ。失礼だわ、馬鹿にしているわ、わたし、不感症なんかじゃないのに」と泣きそうな声で言った。「私はどうも男とうまくいかないの」とも言った。「私が妾の子どもで、父の本妻さんが家に怒鳴り込みにきたこともあったの。私が五歳ぐらいの時に。それが原因かしら。そうじゃないよね」とも言った。「父は、本妻さんに、もう私の母とは逢わない、と約束させられたらしいの。でも、月に一、二度は必ず家に来てくれた。でも、決して泊まらなかったの。父はとてもやさしい人だったが、帰っていくとき、悲しくて、腹立たしかった」とも言った。
そのことが原因で彼女は男を信頼することができなくなったのだろうか。自分を置き去りにして帰っていく父への反発から、心の芯のどこかに男を跳ね返してしまう気持ちがあるのではないだろうか。だが、父はたいへんやさしかったとも言っている。けっしてそれが原因ではないだろう、ただ、たまたま相手にした男と性が合わなかっただけかもしれない。
まさか、百合が? と私は思う。私があの女に感じたような苛立ちを私に感じているのではないだろうなあ。どうもいつも私を見る曇った顔付きは何かに苛だっているような気がしてならない。特に最近、それがひどくなった。セックスした後の数分間はものを言わない。顔も見ない。
そんなことを考えていると、私もまた苛立ってくる。歩道に落ちている空き缶を蹴ったり、冷えた缶ビールや缶ジュースの入ったビニール袋を前後に激しく振りまわしたくなる。
すでに陽は落ちて、辺りは薄暗くなった。横を通り抜ける車のライトが眩しい。
くだらないことを思い出したものだ。何とか明るい気分になりたいものだ。ここらで苛立ちと陰鬱さを断ち切りたい。
丁度、脇道のあるところにきた。ここを右に折れ、坂道を少し登ると小さな公園がある。そこへ行って、このビールを飲みたくなった。まだ、少しは蒼さの残っている夕暮れの空を仰ぎながら、冷たいビールを一気に飲めば気分は少しはやわらぐだろう。それに例え、車を使うことになっても一缶ぐらいならどうってことはないだろう。見つかったって、今は失業中だ。叱られるところは警察以外にはない。
すぐに公園に着いた。入口には公園に向かって街灯がともっていた。ブランコや滑り台の近くにも街灯があって、それらがライトを浴びて朱色に光っていた。その奥にはもう一方にある出入り口につづく道があり、その両側には楠が植わっていて、道には街灯が所々にあった。だから、道は白っぽい蛇のように見える。しかし、両側の林は薄暗かった。それでも植えられている木々はうっすらと見えた。ただそれらはすでに影が立っているようだった。
私は、そんな場所が好きだ。薄暗い影の下は、街の埃が洗われた清純な場所のように思えた。あそこにあるベンチに座ってみようという気がした。あそこへ行けば、自分の失業のことも百合のことも少しは忘れられる。
遊具の横を通り、芝生の運動場を横切り、水飲み場の傍を通って、両側に楠が植えられている道を少し歩いたところで左側の林に入った。そこにはイチョウやナンキンハゼやカシの木やイトスギやヒバなどが、間隔をあけて無秩序に植えられていた。また、その所々にベンチがあった。土地は踏み固められていて雑草などは生えていない。林と言うには低木が少なすぎる。だが、それだけに、一本の木が堂々と見える。
道に近いところのベンチに座った。ベンチは道に向かっていた。横を見ると、低いヒバの木の向こうに大きな楠が立っていた。それは左右に枝を長く張りだしていた。高さもかなりあったが、何より幹の太さに驚かされた。私が両手を広げて幹を抱いても両手が届くかどうか分からない。幹はまっすぐにとはいかない。少し捩れたりしている。だが、そこにある木々の中で一番大きく、また、威厳があった。
それに比べて、ベンチの横の木は、私の背よりも低く、名も知らない。幹も杖ほどの太さしかないが、葉はかなり大きい。楠と比べると、まるで赤子のような頼りなさだ。
風が吹いてくると、葉が揺れて微かな音を立てる。サワワサ、サワワサと聞き耳を立てないと聞こえないほどの小さな音だ。だが、その音に聞き惚れていると、彼らが何かを喋りあっているように思える。何を言い合っているのか分からないが、何かを喋り合っている。
まさか、私に向かって何かを言っているわけではないだろう。「この男、気の毒ですよね。会社には見放され、奥さんにも見放され」と哀れんでいるわけではないだろうな。
私は何も首を切られた訳ではないぞ、会社が倒産したのだ、会社が世の中から見放されたのだ。それに、百合からまだ何も離婚を言い渡された訳ではない、ただ、そうならないかと怖れているだけだ。
私はやはり缶ビールではなく缶ジュースを取りだし、飲み口の金属を剥がし、開いた穴を口に当てて、空を仰ぎながら冷たいジュースを流し込んだ。木々の黒っぽくなった葉の間から、透明な最後の蒼さと紅色の雲が見られた。
ジュースを飲みきったときには、心はやや落ちついた。帰って、テレビでも見ようという気分になった。真登と相撲をとってやってもいい。庭に出て、家からの光の漏れている狭い庭で、子ども用のサッカーボールを蹴り合ってもいい。その後、この公園まで、駆けっこをさせよう。真登を運動させ、身体を疲れさせないと、なかなか眠ってくれないので、早く寝付かせるためにもそうしよう。
真登は、例になく早く眠ったので、テレビで推理ドラマを見ていたのだが、ドラマの中に浮気する人妻が出てきてから、俄にこころが乱れだした。せっかく、公園の林の中で木々に囲まれて落ちついた気分になったところなのに、ふたたび「今晩は迎えに来なくてもいい」という百合の電話が気になりだした。居間の壁に掛けてある時計を見るとまだ十時半を少し廻ったところだ。百合が仕事を終える時刻にはまだまだ早い。今が一番忙しいときだろう。だが、じっとしておれない気分だ。かなり早いが家にいるよりはましか? 車の中の方が落ち着けるかもしれない。
玄関の扉に鍵をかけると、横のガレージへ行き、車のドアを開けて運転台に座った。
車を走らせて十分ほどで百合の仕事場近くの路上へ着いた。バーやスナックやラウンジなどの店が数軒並んでいる。百合の店は丁度真中にある。一番派手な看板が上がっている。数人の酔客が出てきた。その後をピンクや青色のドレスを着けたホステスがいっしょに出てきた。何を言っているのか分からないが男達は大声を出している。女性の一人が、その中で一番歳のいった男に抱きつき頬に唇を当てた。まわりの男達は両手を挙げてはやしたてた。男は素早くふり向き今度は女の唇に彼の唇を当てようとしたが、女は首を斜めにして上手にそれをよけた。すると、再び、まわりの男たちが大声を上げた。
そこへ黒塗りのタクシーがやってきた。女の一人がドアを開け、キスし損ねた男を車の中へ押し込んだ。すると、女の横にいた男が今度は背中の肌を大きく見せているところに手をまわした。手は柔らかそうな背中の肌に吸い付いていた。女は、抱きつかれたまま、上手に男の身体をタクシーの中へ押し込んだ。後の男達はみんな若かった。彼らも車の後ろと前とに別れて乗った。とタクシーはすぐに走り出した。女達はそのタクシーにしばらく手を振っていたが、すぐにドアの中へと消えた。
今の女たちの中に百合はいなかった。だが、百合が見知らぬ男から口づけをされそうになるのを見たら私はどう思うだろうか。大きく見せている胸や腕や背中に手を這わせられかけたらどう思うだろうか。そこにいることに耐えられないような気がした。即座に飛び出して、それを阻止しようとするのではないか。だが、もし、そうしたら、百合は怒るだろう。私の仕事まで邪魔をする権利がどこにあるの、と叫び声をあげるかもしれない。その時から、私は完全に百合の敵となる。いやそれはすでにそうなっているのかもしれない。
百合がラウンジに勤めると言い出したとき、私は少なくとも嫌な顔をした。その顔を見て、百合も嫌な顔をした。そんな所に勤めざるをえなくしておいて、今さら何よ、と言いたかったのだろう。いや、そうではなかったかもしれない。私のすることを妨げないで、いつもあなたは私のすることを邪魔するのよ、と苛立ったのかもしれない。あなたは私の敵よ、と自覚を強めたのかも。
そこまで考えたとき、ああっ、と声を出した。こころの奥底にしまっていて、長らく忘れていたことが頭をもたげたのだ。
何の用事でか忘れたが、私をだいじにしてくれていた伯母の家へ行ったとき、これも何の拍子にか忘れたが、母と私がどこかのおじさんといっしょに旅行をしたことを告げた。母がおじさんといっしょに寝ていたことも告げた。伯母は「へえ、そう」とほとんど何の興味もなさそうに聞いていた。まったくたいしたことではないといった態度だった。だが、そのことがあって、しばらくしてから母の表情は俄に曇りだした。苛立ちとも困惑とも悲しみとも見分けのつかないものを眼の奥深く沈めて、生気のない表情になった。私を見る目もうつろになった。いや、怖ろしさのこもった目付きになった。
伯母は母に何かを言ったに違いない。私はとんでもないことを伯母に告げたのかもしれない。お前は私を裏切った、と母は思ったに違いない。それとも、お前は私の敵になった、と思ったのだろうか。母の眼から私にわけのわからないものが流れ込んでくるような気がして、私は母を見るのが怖くなった。
その時に流れ込んだ母の生き霊が未だに私の心の奥底にとりついていて、私が関わる女に、近づくな、この男は私の好きな男が近づいてくるのを妨げたのだから、と猛烈な力で女を押しかえしているのではなかろうか。
前の妻が何度か私に告げたことがある。「私、あなたの中にあなたのお母さんを見てしまうわ。あなたの声がお母さんの声に聞こえるの。そんなの嫌よ、ぞっとするのよ」と。そんなことはない。私は私だ。母とは別居しているのだし、そのうちそんなことは言わないようになるだろう、と私はたかをくくっていた。それが間違いだった。今の妻の百合もそれを感じているのかもしれない。だったらたいへんだ。百合もまた私から去っていく。
私は車をUターンさせ、先程行った公園に向かって走らせた。公園の林の中へもう一度行きたくなった。公園には駐車場がない。しかたなく公園に隣接する市営プールの玄関脇のところに止めて、再び、夕方座っていたベンチへと向かった。
学童時代、母に叱られたり、友だちからいじめられたりして、気分がすぐれないとき、よく裏山の林の中へ入った。
私が公園のベンチに座ると、その時の裏山で座っていたのと同じような気がした。
裏山は尾根の所が少し平らになっていて、そこが畠になり、芋などが植えられていたが、左右に傾斜があり、右側の斜面は竹林になっていて、その下に私の家があった。左側の斜面は雑木林や松林になっていて、下草の手入れがよくされていて、斜面の下まで下りられた。下には小さな谷川が流れていて、その向こうは再びなだらかな上りの傾斜になって次の山へとつづいていた。
私は、裏山が好きだった。よくそこへ遊びに行き、松ぼっくりや木の実を拾っては下に投げたり、林の斜面に座り、谷川の音や葉擦れの音を聞いた。それは木々の喋り合っている言葉のように思えた。時には言っている言葉さえわかる気がした。「今日は雨になるよ」「いいことは明日起こるよ」などと。
学校で嫌なことがあったり、体調がすぐれず、母が機嫌が悪いときなど、林の中で蹲っていると、木々の声が聞こえてきた。「俺たちはみんなすっくと立っているだろう。小さい木は小さいなりに、みんなそれなりにしっかりと伸びている。クヌギは俺はなぜ楠のように立派になれないのだ、と歎いたりはしない。低木は低木で自分の特性をしっかり出して生きている。それでいい。何事も怖れるな。堂々としていればいい」そんな声が聞こえた。
私は、今、公園のベンチに座って、その時と同じように、しきりに葉擦れの音を聞こうとしていた。かすかだが音が鳴っている。サササ、サササという乾いた音だ。夜なので鳥の声は聞こえないが、それだけ、葉擦れの音がよく聞こえる。音を立てている木は大木から少し離れたあの名も知らない細い木だ。あの時と同じように木の言葉を聞きたい。そう思うと、木が話しかけてくるような気がした。
「お前、思い出すことがもう一つあるだろう」と。
その木は、大木と比べて何百分の一もない。私も小学生のころ、みんなから細い、細いと言われていた。針金に味噌を塗ったような身体とも言われた。母は、おまえは幼いころ、身体が弱く、いろいろ大病をした。例えば疫痢、腸チフス、百日咳など。だから、身体を丈夫にしなければいけない。ご飯をたくさん食べろ、何でもたくさん食べろ、と言ったが、そう言われると食べたくなくなった。背はクラスでも一、二を争うほどあるのに、手や足は針金ほど細かった。身体にはまったく自信がなかった。
「思い出さねばならないもう一つのこと?」
「そうさ、まったくくだらない思い出だけれど、お前にとっては重要なこと」細い木が再び言う。
「ううん、そんなことがあったかな」
「運動会でのことで、そら、六年生の」
ああ、あのことか。ようやく一つの記憶が甦ってきた。そう言えば、そんなことがあったなあ。まったくくだらない、ある意味では、恥ずかしい思い出。
運動会の最後を締めくくるものとして、六年生男子でする組体操をした。一番中央でする組に選ばれた。PTAの会長さんや、校長先生、その他、来賓の人たちの前でするのだ。一番下に四人が横一列に身体をくっつけ、四つん這いになり、背を丸めて人の乗れる台を作る。その上に三人が乗って同じような姿勢を取る。その上に、さらに二人が乗り、その上に最後の一人が乗る予定だ。
私は背が高かったので、一番下の、しかも真中の二人のうちの一人にされた。そこの二人が一番重いものを背負うことになる。私の隣の級友は、頑丈な身体の持ち主で、そこを担うには最も適する者だった。
先生は私を見て「お前、大丈夫か、誰かに代わってもらうか」と言ったが、私は「やってみます。大丈夫です」と言った。私はたいへん痩せていて、いつも、背高のっぽのと言ってみんなからからかわれていたので、どうしてもそれをやり遂げてみたかった。「本当に大丈夫か」と先生は何度も首をげながら言った。
二段目の級友たちが乗ったが、その時はたいしたことはなかった。三段目が乗った。ぐっと両腕に重さがかかった。細い腕がしなり、折れそうだった。背骨もくぼんで痛かった。だがそれも耐えた。いよいよ最後だ。最後の一人が、一段目の端に足を乗せたようだ、ぐらっと揺れた。だが、みんな、ううん、と悲鳴を上げながら耐えた。腕が震え、掌に石ころの痛みが強烈に襲ってくる。彼がいよいよ二段目から三段目に登ったようだ。重さがぐっとかかってきた。上段の級友の手が私の肩を思い切り押す。もう耐えられない。腕が折れる。背骨が折れる。気が遠くなる。「頑張れよ、頑張れよ」隣のやつが言う。「もう少しだ」と私を励ました。そうだ、私の家は山の中腹より上にあった。そこへは細い山道しか通じていない。その頃、村にも簡易水道が引かれていたが、そんな上まで水道が来なかった。それに、井戸もなかった。だから、水は下の家の水道からもらい水をしなければならなかった。水くみは私の仕事だった。二つのバケツに水をいっぱい入れ、両手で二百メートルほど離れた私の家まで、何度も運んでいた。それが私のいつもの仕事だった。重かった。腕がちぎれそうだった。だが、毎日それに耐えた。また、その頃、村の多くの家ではすでに簡易水洗便所にかわっていた。それで、月に一度、バキュームカーがやってきて、家のタンクから汚水をくみ取り、それを汚水処理場へ運んでいった。ところが、私の家までは車が通れる道などなく、ただ、細い山道しかなかったのでバキュームカーがやってこれなかった。だから、旧式のくみ取り式のままで、しかも、たまった糞尿は、自分の家で処理しなければならなかった。
二つの肥桶に糞尿を半分ほど入れ、天秤棒の両端にそれを一つずつぶら下げ、肩に担いで一キロほど離れた所にある伯母から借りた畑に運ぶのが私の仕事だった。その痛さ、苦しさに比べればこんなことは何でもないと自分に言い聞かせた。すると、幾分、腕の痛みがやわらいだ。ピー、ピー、ピー、と笛が鳴った。上に乗ったクラスで一番のちびが笛が鳴る度に左を向き、右を向き、上を向く。我々もそれに合わせて、顔を向ける。拍手が鳴る。痛みが走る。ピー。最後の音でみんな一斉に前に倒れた。どん、と上の級友が私たちの上に乗ってきた。臑の皮膚を摺り剥く。きっと血が吹き出しているに違いない。でも、やり抜いた。私にもやれたという喜びが吹き上がってきた。針金に味噌を塗ったような私の身体が、みんなと同じように、重さに耐えたのだ。これで幾分かは、私を嘲笑う声が減るだろう。ピーという合図でみんなが立ち上がった。へなへなと崩れ落ちそうなだるさを覚え、倒れそうになりながらもそれをこらえて立った。その時、にっこりと笑ったことを憶えている。今まで、あの笑いを忘れていた。なんということだ。
「堂々としていればそれでいいのさ。生き霊が取り憑いているのなら取り憑かせろ。女が去るなら去らせろ。堂々としている木にはまた鳥が留まりに来る。宿りの場にもなる」そんな声が再び辺りの木々から聞こえてきた。
じっと座っていると木々の精気が染み込んでくる。気分が落ちつき、何だか自分も木々の中の一本の木のような気がする。よし、これなら大丈夫、そんな気分にもなる。
立ち上がり、公園の広場を通り、車を置いてあるところへと再び戻った。
車をラウンジ近くの先程と同じところに移し、じっと店のドアを見詰めた。二、三人のホステスが、客を送りに出てきたが百合はまだ出てこない。百合には客がつかないのだろうか。それもまた困る。百合が自信をなくしてしまうではないか。百合はそんなに魅力のない女性ではないはずだ。
私と同じ年齢ぐらいに見える客が出てきた。その後から百合が出てきた。他のホステス達と同じような、胸の広くあいた、ほとんど乳首さえ見えるほどにえぐられた赤っぽいドレスを着ている。時々振り返ったときには、ドレスの背中がそれ以上に大きく開いていて、瑞々しい果肉のような肌がよく見えた。
店先でドレスの裾をひらひらとさせながら百合は客と親しげに喋っている。
光のためだろうか、肌はいやになまめかしい。年齢よりよほど若く見える。眼の化粧も濃く、睫も長い。顔付きもまったく違っていて、あれは男をそそる眼だ。首筋はミルク色をしていて柔らかそうだ。腕もふっくらとして瑞々しい。突然、客が彼女の腕を撫ではしないか。そっと乳首を触ろうとしないか。腕を肩にまわさないか。百合に唇を合わそうとしないか。
気持ちが高まってきた。もし私が傍にいたら、彼女に飛びつき、唇をあわせに行く。
ああっ、う、う、う、と声を出す。咄嗟に、ドアの取っ手に手をかける。車から飛び降り、全速力で百合の所へ駆け出そうとする。
客が動き出した。手を彼女の後ろにまわし、私の妻を抱こうとしている。
だが、私は身体を動かさない。昔のように、彼女の行為を妨げたくない。もっと堂々と彼女の振る舞いを見ていろ。
例えそのようなことがあっても、なあに、それが彼女の仕事、と割り切るぞ。女優を妻にした夫達は、妻がラブシーンをしても悠然としているではないか。
だが、客は百合の肩を抱かなかった。百合は客に手を伸ばして握手をしただけだった。それから、丁寧にお辞儀をした。客は片手を挙げて、すたすたと歩き出した。百合を振り向きもしなかった。百合はしばらく客を見送っていたが、身体を飜してドアの中へ消えた。
けたたましく打っていた鼓動が、ゆっくりと治まっていく。何というざまだ。何が堂々としているだ! と私は自嘲した。
腕時計を見た。閉店時間は過ぎている。この時刻なら、すでに私の車に百合が乗って家に向かっている時間だ。だが、今日は、まだ終わっている気配はない。やはり貸し切りのパーティーが行われているのか。それとも、すでに店が終わり、ホステス達は別の出口から外に出たのだろうか。百合も客といっしょにどこかへ消えたのではないか。
苛々しながら、それでもかなりの時間待った。すると、突然、ドアが開き、多くの客達が出てきた。ホステスも数人、ドレスのまま出てきた。だが、百合はいなかった。タクシーが止まり、客とホステスが数人ずつ別れて乗った。
その後、十分ほどして、今度はホステスだけが三名ほど出てきた。今度は百合がいた。彼女たちはみんな普段着に着替えていた。タクシーが止まり彼女たちはいっしょに乗った。ドアの所で、バーテンダーらしい若い男とママらしい歳のいった厚化粧の女性が「お疲れさま」と言って見送っていた。
何だ、同じ方向に帰るホステス達がシェアしながらタクシーを呼んだのだ、それに、料金はパーティーの主宰者が払うのだろう。やはり百合は嘘をついていなかった。ほっとした。だが、すぐに、そんなことを喜んでいる場合ではない。百合よりも早く家に帰って、何気ない顔で彼女を迎えなければならない。ラウンジの前で百合を監視していたなんて、知れたらたいへんなことになる。夢にも思わせてはならない。私は慌てて車を発車させた。
百合が玄関の扉を開けて帰ってきた。「おかえり」と私は明るい声で迎えた。本当はもう少し抑え気味の声を出すつもりだった。
百合は玄関を入るなり、真登の寝室へ直行した。私は彼女の後ろをゆっくり付いて行った。
「真登はよく眠っているわ」と百合がうれしそうな声を出した。私にもあんな声を出してもらいたいと思った。
「疲れているかい。風呂は沸いているよ」と私は言った。
「先に眠っていてくれたらいいのに」と百合が言う。
「ああ」とだけ答えた。眠ってなどいられるものか、まだ私はそれほど人間ができてはいないのだ。
「話があるんだけど」と私は咄嗟に言った。
「へえ、何?」
「仕事先をきめたよ」私は嘘をついた。いや、これは嘘ではない。明日になれば本当になるのだから。
「ええっ、いいところがあったの」
「まあなあ」
「よかったわ」
「給料は以前の半分ぐらいにはなるけれど」
「いいわよ、そんなの」
百合は私の方を向いて少し笑った。
昨日、職探しに行ったとき、警備員の仕事があったのだが、こんなのは身体がもたん。私は事務職しか向いていない。だめだ、今までのキャリアが生かせるところでないとと、そう思い歯牙にもかけなかった。
もういい。仕事さえあればなんでもやってやる。明日、ハロー・ワークへ行って、何かあれば申し込んでくる。その仕事を堂々とやってやる。いい仕事があればその時かわればいい。友人はすべてそこそこの地位に就き、給料も多くもらっているだろうが、そんなことはもうどうだっていい。私は六年生の運動会のあの時、多くの友だちの重さに耐えたではないか。それに、母の言いつけで、広い庭を備中鍬ですべて掘り起こして、野菜のできる畑に変えたではないか。先程も思い出した水運びも、糞尿運びも立派にやってのけた。けっこう肉体労働だってやれる。いや、やれるはずだ。警備員だって、介護助手だって、建設作業員だって、何だってやれるはずだ。今でも立派な身体とは言いがたいが、いざとなればかなりのことに耐えられる。頼れるのは会社でも、今までのキャリアでもない。自分の身体なのだ。そう思うと、頼りないけれども何とか持ちこたえられそうな足場ができたような気がした。それは誰からも犯されることのない自分自身の中の支え。
「えらく、明るい顔をしているわ。よかった」百合が言った。
だから、お前の仕事は辞めてくれ、なんて私は決して言わないぞ。その仕事をやりたければやればいい。迎えにきて欲しければ迎えに行ってやってもいい。もちろん、夜の警備員になればそれはできないが。
「じゃ、私、明日、また、お総菜屋さんに就職頼みに行ってくるわ」
「ええっ? 待てよ、今の仕事、つづけたければつづけていいよ。おれの給料は多くないんだから」
「いいわよ。そんなの、大丈夫よ、心配しないで。やりくりの専門家だから」
蛍光灯の下で百合は微笑んだ。両方の目尻に細い鳥の足のような皺が寄ったが、それがとても美しかった。女らしさが濃厚に漂う魅力的な顔に見えた。
「真登が喜ぶよ。すごく」
私が言う。
「夜、お母さんに家にいて欲しそうだったから」と私はつづける。
「あの子の面倒を見るのに慣れたでしょう」
百合は目尻をさげ、眼を細め、それを三日月形にして再びにっこりと笑った。
慣れてなどいない。お前の替わりなどとてもできるものではないと思いながら、よかった、本当によかった、と思った。この家で、真登よりも一番喜んでいるのはこの私だ。喜ぶぞ、大いに喜ぶぞ、堂々と喜ぶぞ、と私は思う。 了